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ラッセルのパラドクスの比喩として出てくる「自分のヒゲを剃れない床屋」の譬え話には弱点があると思うこと

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ラッセルのパラドクスを説明するのに、以下のような有名な譬え話があるのですが、

ある村の床屋は、自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る。さて、村人の一人であるこの床屋自身は、自分の髭を剃るのか、剃らないのか?

『ラッセルのパラドクス』(三浦俊彦著/岩波新書)

私は、この譬え話は、いまいち不適切だと思っています。

ラッセルのパラドクスというのはなるほど不思議なものですが、しょせんは論理学や数学やらの問題であって、しかもやろうと思えばいろんな方法で回避できるものです(ただし、パラドクスを回避しようと躍起になればなるほど、制約制限だらけでとても使いものにならないような「体系」ができあがっていくという点で、たしかに厄介なものではありますが)。

そもそもこの床屋の譬え話、

ユーモラスで面白いのだけど、どちらかといえば、

ルイス・キャロルが好みそうな、「言葉のナンセンス」に属する、『不思議の国のアリス』のキャラクターのような不条理なキャラという役どころがふさわしく、論理学的ないし数学的な話の比喩としては、余計な解釈の余地が広すぎる気がする。

つまり、『不思議の国のアリス』の世界の中で、髭をきれいに剃った跡のある床屋が「私は、自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る床屋です!」と叫びながら登場し、対してアリスが「え?、、、剃ってんじゃん!?」とツッコミを入れて秒殺するなら、それは、いかにもルイス・キャロル流儀として出てきそう。でも、そういう「ナンセンス世界」という背景に依存してないと、どうも曖昧な余地が気になりすぎる。

そもそも、私がずうっと昔から気にしているのは、「この床屋が女性だったら、どーなるのだろう?」ということでした。

もちろん、その場合でも、

「この床屋は、たとえ相手が女性であろうと子供であろうと、『自分で髭を剃らない人間』であれば強制的に襲いかかり、ない髭でも必ず剃ろうとする厳密なルールに則っている妖怪のような存在」なら、本人が女性でも「パラドクス」は発生する。

「髭がない女性だろうと、自分で髭を剃らない奴にはカミソリをあててやるぞコラア!」と叫んでいる女性の床屋には、「え、、、じゃあ、あなたご自身はどうしてるの?」とアリスが言えばやはり秒殺できる。でも、そんな「女性の床屋」というのは、なんか変だ。

しかも、そんな床屋が現れたとして、「いや、、、お前の言っていることはおかしいだろ?」と、論理に敏感なアリス嬢がヒトコトいえば粉砕できるだけのキャラにすぎず、それほど危険はない。ヘンテコかもしれないが世界を揺るがすような不条理な存在ではない。『不思議の国のアリス』の世界に跳梁跋扈する、「『ニヤニヤしている』という性質だけを残して他は消えることができる」猫やら、既に首だけしかない動物を指さして「こいつの首を刎ねよ!もしできないというならお前の首を刎ねる!」と命令してくるハートの女王やらのほうが、はるかに危険で凶暴な連中だ、、、。

というわけで、

「床屋の比喩」は、そーいう、余計なツッコミや雑念が入ってしまう点で、あまりよい説明ではないと思う。

本来のラッセルのパラドクスは、「素数と、素数でないもの」とか、「正方形と、それ以外の四角形」とかいうように、「◯◯と、not◯◯」をきれいに分けられる数学の世界が似つかわしい。

それを文学的ないし寓話的な世界に持ってきてしまうとそもそもの性格が変わって伝わってしまう気がします。

ただし!

この「床屋」、かくいう私も、「どこか変だ」と文句は言いながら、一度きいたら頭から離れなくなってしまった、独特の存在感(!?)を持ったユーモラスなキャラであることは間違いない。

どうもルイス・キャロルにせよラッセルとその取り巻きにせよ、イギリスの論理学者が大衆向けにハナシをすると、独特な笑いのセンスが稼働するみたいです。さすがは『不思議の国のアリス』を産んだお国柄、、、これが英語文化に特有の何かなのか、あるいは、イギリスがことさらこの手のナンセンスジョークが好きな学者を生み出しやすい土壌なのか、何の伝統がこういう無数の「論理の世界のスキマから這い出てきた珍キャラクター」を生み出し続けているのか、よくわかりませんが、、、面白いもんは仕方ないし、面白い喩え話はたしかに頭に残る。けっきょく人間のココロ、「面白い」モンには勝てない。


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