「エリートと非エリートの分断が問題」というありがちな言説への違和感と私が英米哲学好きな理由
アメリカ大統領選の後などに
「エリートと非エリートの分断が大きくなった。もはやエリートの声は非エリートには届いていない」という言葉があるが、
それをアメリカが言ってはいけないでしょうw
そもそも、理系の専門科学は別として、
政治学や社会学を大学で学んだ文系エリートは、その知識を使って、よく話し、人々の議論を促し、ひいては地元の非エリート層の大衆と政治をつなげるための橋渡しになるべし、というのが近代の大前提だった筈では?少なくともアメリカ流ではね。
大学で4年間勉強したことを使って、大衆に説明や説得ができず、どうする?
この点、実は私も、自分が大学生の時に気になったことがあり。
どーして、特にフランスやドイツの影響を受けた、批判理論とかカントとかヘーゲルとか構造主義とかは、同じ勉強をした人間にしか通じない哲学専門用語で語り合うのか不思議で仕方なかった。政治や社会をよくするための理論なのでしょう?それをめちゃくちゃ難しい言い回しの論文にするのって、誰に向かって話をしている?学者仲間に評価されるため?
その点、私は他にもいろんな理由があって、英米哲学に転向した人なのですが、この点で見てくださいよ、
ラッセルにせよポパーにせよ、専門の哲学論文はプロ向きだが、大衆に向かって人生論や政治論を語る本では人が変わったように平易でわかりやすい文章になってる!ラッセルにいたっては大学受験英語の読解問題の定番になってるくらい、文章がきれいで明快。
ラッセルのゴリゴリの哲学論文(『記述について』とか『プリンキピア』とか)となると、これらはなるほど、もはや専門家でもそのエキセントリックすぎる宇宙観についていけるか試されるところがあるほどのアバンギャルド哲学だがw、政治や社会の話をすると恐ろしく「良識的でまっとう」な議論をしてくれる、この切り替えは見事。
日本でも、過去には寺田寅彦先生や岡潔先生のように、「大衆にわかりやすくいろいろなことを教えてくれる」エッセイスト学者がいた。
「大学で勉強した知識を使って、最新の科学ニュースや、外国で起きた政治問題の背景を、わかりやすく、面白おかしいエッセイにして、お話しますね」ってスタンスのエッセイスト学者が人気者だった。
そして現代日本はまだまだ、アメリカほど、エリートと非エリートの間が感情論としてスパークはしてないと思う。大卒の人は最近のアメリカを反面教師に、謙虚にがんばってほしい。。。ハッ!そういや僕も大卒だった、、、。