今さらながら詩集を紐解く 買ったときにはピンとこなかった言葉も、亡くなった今になって、亡くなったと知った今になって、あ、これは生について考えていたのだなと、ぼくなりに解釈する 生前と没後 発した膨大な言葉は読まれ続けるのかもしれない 彼の人は自然へと還っていったのだな、解釈は読む人に永遠に任せるのだな
一応三連休である ちょっとしたアレで外出はできていない 朝6時に起きてノンの散歩をする 堤防道路を何台か車が走る、工業地帯の方向 エンジン音で、ああ仕事なのだなとわかる、月曜日だ 休日のそれとは明らかに違うその音には少しだけ棘があって耳に刺さる 抗不安薬を飲んでくればよかったと思う 十日ほどまえからジョウビタキの声が、カカ、カカ、と聞こえてくる、秋なのだな
2年前のこの季節はよく歩いていた。休職中だったからだ。その8月に休職のための診断書を書いてくれた心療内科の医師は、休んでいるあいだ、好きなことだけしてたらいい、と言ってくれた。実際には症状もあり経済的な理由もあり、好きなことばかりというわけにはいかなかったのだけど、涼しくなってきた頃に、急に歩きたい欲が高まってきた。とは言え1日中歩くのはいきなりのハードルでもあるので、好きなパン屋さんまでをとりあえずの目的地にしてみた。グーグルマップで徒歩のルートを調べると、今まで知らなかっ
小さい頃、よく『漫画家になりたい』と口にしていた。どこまで自分でも本気だったかよくわからないけれど、まんがが好きで絵を描くことが好きなら言いそうなことではある。 小学校も高学年になった頃、工業高校の機械科に通っていた兄の製図道具を見る機会があった。向こうからほら、と見せてくれたのかたまたま置いてあるのをぼくが目ざとく見つけて話しかけたのか。製図道具はいかにも高級そうな箱にコンパスやら定規やら、あとなんだっけ、色々な道具が整然と並んでいた。それは何かを描きたいぼくにとって垂涎
十一月の中旬、倉敷の自宅から持ってきた自分の赤いクロスバイクを車から降ろす。この辺りは盆地で、冬を先取りしたように空気を冷たく感じる。モンベルの青いダウンジャケットを着る。ペダルを漕いで気の向く方向へ走り出す。 七年前に初めてここに来て以来、なだらかな丘に水田がひろがり、石州瓦の独特の赤い屋根の農家造りが主流のこの土地の景観にすっかり魅せられ、この中を自転車で走ったら気持ちいいだろうなと思っていた。 本当なら田植えが済んだ頃の初々しい緑とその渋い赤い屋根のコントラストを楽
昨日大阪のイベントに出店していたのが夢のようでフワフワしている。確かに朝から在来線と新幹線と地下鉄を乗り継いで現地まで行ったし設営してその後お客さんが目の前をゾロゾロと歩いていたし何冊か買ってもらえたから現実だったんだろうけど、あまりにも普段の生活とは切り離されている空間のような気がしている。昨年は客として行った。その時から来年は出店してみたいと思って一年を過ごしてきた。出す側として見る景色は客として見る景色とはかけ離れていた。そこが夢のように思えるところだと思う。その景色を
どうしても庭の隅で咲いている青い朝顔をうまく撮れないのだ。カメラの知識や技術がほぼ無いのだからしかたないのだけれど、毎年こぼれ種から咲く八月後半から九月の初めが盛りのこの花の青がうまく出ない。もしかしたらぼくの目を通してみるものと(主観)カメラのレンズを通すもの(客観)にズレがあるのかもしれないが、それにしても、だ。 この青い朝顔は、つぼみや、夕方の咲き終わった時には赤紫色を呈していて、そこが不思議で美しい。そちらの方は上手い下手は別にして、それなりに見たままの色が写真で出
あおいが心療内科の復職プログラムに参加して2ヶ月ほどが経った頃、自分より若い女性が受講生として入ってきた。口数が少ない。週に一度フリートークタイムがあるのだけど、その子は自分からはほとんど話さなかった。 あおいも含めて他の受講者はそういう場面では休職に至った理由だとか症状を話したりもしたのだが、その中で一番の古株になっていたあおいが話を振っても、その核心に近づくような言葉は出て来なかった。もちろん、話したくなければ話さなくていいのだけど、あおいはその子のことがいつも気になっ
夢見が悪かった。 メンタルが下限値ギリギリである。普段から中間より上に振れることはほとんどないが、それにしても、だ。 夢は悪い内容ではなかったが、一晩中見ていてた。何度か睡眠の途中で気が付くと、あ、夢を見ていた、と思い出す。最終的に朝の四時半に目が覚めた時に明らかに落下しているのが自覚できた。その三十五分後に鳴るはずの目覚まし時計をもう十分遅らせて、抗不安薬を一錠飲んだ。朝方にうっかり飲むと心が落ち着いて(すぎて)、アラームを止めたのも気づかずに寝坊するから先回りしたのだ
離婚後、母は家庭裁判所に通っていた。どれくらいの期間どれくらいの回数かは小学校低学年だった自分の記憶ではあやふやだが、本人が言っていたから間違いはないだろう。 どういった話をしていたのかも知らない。家裁での調停が必要なくらいだから多少は揉めたのかもしれない。親権は養育費は父親には定期的に会わせるのか。 母の不利になるようなことはなかったのか。そもそもの原因は父親の不始末にあるのだと一度だけ聞いたことがあるくらいで、それ以上のことは聞いていないし調停で何が決まったのかも聞い
あおいは色についてよく考える。中学校までは美術部に在籍していた。熱心ではなかったし上手でもなかったが、そういうことに好奇心だけは持っていた。高校で美術部を選択しなかったのは、部活動を選ぶ初日に美術室を探すのに校内を迷ったこと、高校生ともなればきっと絵が圧倒的にうまい連中に混ざってやっていけない自信があったこと、その迷いの結果として廊下をうろうろしているところを同級生に誘われて映研に入ってしまったこと、動きのある映画には強い興味はなかった、静止している絵の方が好きだった。そして
土曜日の半日の授業を終えて単線の私鉄に乗ってあおいは帰宅する。駅を降り月ぎめの預り所から自転車に乗り運河に架かる橋を渡ると、小さな頃から住んでいる小学校区に入る。米の集積場があり、水田があり畑作地がある。昔この辺りで牛を飼っている小屋があった。いつの間にか目にしなくなったなあ。ほぼ海抜ゼロメートルの細い農道をペダルを漕いできみは進む。ぼくはそんなあおいの、きみの背中を追いかける。きみはまだこれからたくさんのことを学ぶ。きみのことを揶揄する人間も現れるかもしれないし、もうそうい
おい、あおい、洞窟探検行ってみいひん? と声をかけてきたのはSさんだ。下宿の二階に住む二学年上の人で、浪人したあおいとは年齢ではひとつ違いだ。大学は枚方市内にあって下宿はそこから自転車で十分足らずの距離だった。アパート、ではなく下宿風情を色濃く残した遺産のような木造の建物だ。学内でも、大学からは京阪電車の最寄駅からは最も遠い部類だということも含めて、そこそこ知られた存在だった。 その洞窟、いうか鍾乳洞な、昼は普通に観光客相手に営業してんねんけど、夜は料金所だけ閉めて穴
Ⅰ. 結局それが遂行できなかったことに意味を見出そうとしても無駄だということは、あおいにもよくわかっている。 結果的に一年に及んだ休職期間を終えようとする昨年の夏に、実家のあるH市まで母親の墓参りに行った。もっとも正しい表現は、その計画を立て、新幹線に乗り、乗り継いで最寄りのJR駅までは行った、ということだったなとあおいはその事実を定義する。 その計画の二週間前に、かかりつけのクリニック職員である精神医療ソーシャルワーカーの女性と職場に赴き、直属の上司と人事担当の男性と
あおいの生まれた街にも海はあった。両側を細長い半島で腕のように囲まれて南に外海からの入口が開いた小さな湾の、さらに奥まった入江の東側にある市が、それだった。海といってもあおいの知る限り、大半は埋め立てられた地方都市にありがちな小規模な工業地区で、最南端のわずかな海岸線は大戦後に干拓地に造成されていて、その向こうにあるはずの海を見ようと思うと、干拓事業のために建設された、聳え立つ巨大なすり鉢状の防潮堤をよじ登らなければならなかった。 一方、入江の沿岸をおおむね南北に延びる埋立
いつもは目線の高さで見る空を、何の気なしに首を90度上に曲げて見上げてみると、めまいがして、そのまま背後に倒れそうになる。底の知れない得体の知れない深さが一瞬、雲間から伺えるようで、背筋がヒヤリとする。高層ビルやタワーから街を見下ろす時。淀んだ淵の、あるいは自分の乗った船の下の海の深度を想像する時。それよりももっと遠い距離が頭上にある。夕闇が濃さを増すごとに、それは限りなく深くなり 放り出されるように沈んでゆく