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オートバイ


あおいの生まれた街にも海はあった。両側を細長い半島で腕のように囲まれて南に外海からの入口が開いた小さな湾の、さらに奥まった入江の東側にある市が、それだった。海といってもあおいの知る限り、大半は埋め立てられた地方都市にありがちな小規模な工業地区で、最南端のわずかな海岸線は大戦後に干拓地に造成されていて、その向こうにあるはずの海を見ようと思うと、干拓事業のために建設された、聳え立つ巨大なすり鉢状の防潮堤をよじ登らなければならなかった。

一方、入江の沿岸をおおむね南北に延びる埋立地の真中あたりには、唐突に砂浜と呼べそうなところが延長わずか数十メートルだけあって、そこが、自分は通っていない市内唯一の高校のヨット部の練習場として使われていることは、その市の住人にある程度知られていた。かつてその街の海には戦前は(あるいは戦後少しの間は)海水浴場があって、その浜は全国に名の知れ渡った他県の白砂青松の美しい海浜にあやかって名前が付けられていた。

夏には近隣の町からも単線の私鉄に乗ってたくさんの観光客が押し寄せたということは親からいつもくどいほど聞かされていたが、その工業地帯の真中にある砂浜が、その当時の貴重な姿を残すものなのか、埋め立て工事の何らかの事情でたまたま姿を残すか、後から市議会議員の要望を受けて付け足されたものなのかはわからない。
そんなふうだから一応は海のある街に住みながら、爽やかな海風を浴びることのできる風情もなく、夏の海水浴と言えば海岸線を南東に進み湾の中央あたりまで行くか、もうひとつの選択肢は、入江に架けられた大きな橋を渡るか又は海底に掘られたトンネルを通るかして向こう岸の街に行き、さらにその南北に細長い半島を突っ切った側にある海水浴場にまで行くのが、自分も含めてその街に住む人々の当たり前だった。

あおいの実家は小さな地方都市の中でもやや内陸寄りの地区にあり、その市にあるのがたとえ埋立地だろうとなんだろうと海の気配は普段はほとんど感じられなかった。たまに早朝、大型船らしい汽笛のボーっという音が緩い西風に乗って聞こえることが、唯一ここが海に近い土地なのだということをあおいの記憶にごく浅く刻み込んだ。

高校卒業後は、一年の浪人を経て、県外の大都市圏のベッドタウンにある大学に進学した。母親に育てられたあおいにとっては、親からしたらかなりの無理を押し通した結果として得た念願の一人の生活だったが、浪人をしている間にそれまで培ってきた人間関係が薄くなり、県外の大学に進むと、その地方の雰囲気や、あるいはいわゆる当時の大学生ノリに合わせることが苦になってきていた。学内の同級生や下宿の先輩などに時々は食事を一緒にする仲が良い人も少ないにしろいるにはいたが、その全体的にガヤガヤとした仲間内の空気の中では無駄ともいえる疎外感を感じずにはいられなかった。
また大学のある街自体も内陸に位置していて周囲は低い山に囲まれていて、あおいの地元と比べるとはるかに大都会だった。広い平野が海に落ち込む地形の中で育ったあおいは、無意識のうちに物理的な閉塞感も敏感に感じ取っていた。そういうふうだから夏休みなどの長期休暇はたいていその小さな海沿いの街に帰省した。そこでかねてからの友人数人と交流したり、あとの時間はほとんど毎日をアルバイトに充てていた。
あおい自身、せっかく県外に出ることができたのになぜこんなことをしているんだろうという気持ちも無いではなかったが、疎外感を抱えたまま一人であの街にいることは苦痛に感じられそうで、仕方ないことと自分に言い聞かせていた。

アルバイト先は市の中心部にあるガソリンスタンドだった。かねてから在学中にバイクに乗りたいと思っていて、そこからの連想でガソリンスタンドで働くことにその年齢独特の憧れを持っていた。中心街にあるとは言え、人口もそれほど多くない街だから、常に混雑するような店でもなかった。朝の八時から晩の七時まで、正社員と同じ時間働かせてもらうことができたので、休暇の最終勤務日にはそこそこのバイト代を現金で受け取ることができた。大半は生活費を補うために使われたが、他のバイトと合わせ少し貯金ができたところで中型二輪の免許を取り、念願だった250ccで年式の古いオートバイを買った。

アルバイト先の人たちはみな優しかった。夏冬春と何度か通う中、同い年の大学生の女の子や高校生の男の子のアルバイトがいた時もそれぞれ一度ずつあったが、それ以外の季節はあおいだけがアルバイトとして雇われていて、必然的に周りは年上ばかり、一番年齢が近い社員でも二十代後半だった。時々店を経営する家族の、後継ぎとして役職に就く男性の妻が経理のためにパートとして出勤していて、未就学の子ども二人を連れてくることもたびたびあった。特に下のまだ三歳になるかどうかの弟はあおいによく懐き、仕事が暇な時は、そしてそうした時間はたくさんあったが、その幼い子の遊び相手になっていた。それまでそうした環境にいなかった自分でも子どもの遊び相手になれるなどとは考えたこともなく、意外なことで新鮮だった。

勤務時間は19時の閉店までで、終業五分前になると作業場のシャッターを閉めたり道路に面した給油場の入口にロープを張る作業を始め、時間きっかりにはタイムカードを打刻し、みな一斉に退店した。夏休みは七月末から九月上旬までで、夏至はとうに過ぎていたが晴れていれば閉店時間はかろうじてまだ空に明るさが残っていた。そういう時あおいはまっすぐに自宅に帰る気がせず、バイクに乗って店を出て家とは反対側に曲がり、いったん工業地帯を通る国道バイパスをしばらく南下する。大きな工場の立ち並ぶエリアを数キロメートル過ぎると、ついにはその道が行き止まりになる。その手前で入り口を見逃しそうになるほどの細い道に左折すると空気が変わるのが体感できる。

市の最南端の干拓地は二重構造になっていて、海と現在は農地となったところを隔てる巨大な堤防のもうひとつ内側に、江戸期に新田開発のために築かれた低い堤防があり、左折して入った道がその堤防上にアスファルトを張った道だった。その堤防道路の北側の法面、つまり当時造られた新田の側には海風を遮る松並木が残っていた。反対側、南側の法面の真下あたりまでは昔は波が寄せていたのだろうと想像できた。
バイクをバイパス道路から入った狭い道を東に走らせると左手は新田農地が、ところどころビニルハウスが点在する以外は、往時のそのままではないかと思わせるように広がり、右手は戦後の干拓農地が広がる。民家を示す明かりは左に遠く、ほとんど夜になった暗さの中を、ツーストロークのエンジン音をヘルメット越しに聴きながら古ぼけたヘッドライトの薄黄色の灯りを頼りに、緩やかに蛇行する道路を右左にステアリングを切りながら走る。そうしていると闇と化そうとする群青に染まる景色に、あおいが実際自分の目では見たことのない、しかも正確かどうかすらもわからない干拓される前の海の景色の記憶がよみがえってくるようなふわりとした感覚に包まれた。外の空気を直に感じられるオートバイにまたがっていると、心が解き放たれていくかのようで、そうした時間が楽しくもあった。

堤防道路の一方から五分とかからずにその道路の東に突き当たると、バイクのギアを落とし、ステアリングを右に切り、今度は戦後に造成された方の干拓地の縁をすり鉢に沿いながら走る。最南端に着いたところでバイクを降りる。少し歩いたところで堤防をよじ登り人が歩けるくらいの平らな場所に立つ。そして胸の高さにあるコンクリートでできた最上部越しに海を見た。そこから真下を覗き込むと眩暈がしそうなほど高く、堤防を補強する岩場に湾内の弱い波が打ち寄せる。湾自体はそれほど大きくはなく、外海と湾を仕切るように東西に横たわる半島の先にある火力発電の煙突が何本か、まるで海面から直接突き出ているようにそこからは見え、そして飛行機にその存在を知らせるための赤いライトが明滅していた。時折、船の灯りが目の前を通り過ぎることもあった。その半島の向こうは灘で、その先は太平洋につながっていた。もう暗くて青とも緑とも言えない、紺色を極限までに濃くしたような海面は、闇に残るほんの僅かな薄明りを受け、そのせいで波頭が白く浮き立っているのが見てとれる。そうした景色を目の前にして波音を聴きながら、しばらくの間あおいは自分の頭の中の思考を過去から未来へ、未来から過去へ、潮の満ち引きのように行ったり来たりするままにしていた。それに飽きると今度は堤防を降り、自分のバイクのエンジンのスターターをかける。

その一連の動作が、海のある街で生まれ育ったあおいの唯一、あるいは本当にわずかな自分のアイデンティティとしての海にまつわる記憶だった。



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