見出し画像

夕方の話-5


十一月の中旬、倉敷の自宅から持ってきた自分の赤いクロスバイクを車から降ろす。この辺りは盆地で、冬を先取りしたように空気を冷たく感じる。モンベルの青いダウンジャケットを着る。ペダルを漕いで気の向く方向へ走り出す。

七年前に初めてここに来て以来、なだらかな丘に水田がひろがり、石州瓦の独特の赤い屋根の農家造りが主流のこの土地の景観にすっかり魅せられ、この中を自転車で走ったら気持ちいいだろうなと思っていた。

本当なら田植えが済んだ頃の初々しい緑とその渋い赤い屋根のコントラストを楽しみたかったのだけれど、いつでもてきそうな気がして先延ばしにしていたら結局稲刈りもすっかり済んだ季節にになってしまった。次の春にはこの街の外れにある大学に職を持つ娘の夫の仕事の都合で二人がこの地を離れることが決まっていたから、この日がラストチャンスでもあった。

ぼくが出ている間、娘と妻は買い物に行き、お昼用においしいパンを買って来てくれるという。娘の夫は、土曜日なのにしなければいけないことがあると研究室に向かった。いったい何の研究なのかと聞くといつも丁寧に説明してくれてその場ではわかった気がするけれど、一晩寝るとよく覚えていない。

文系のぼくはひとりでアパートを出て、民家もまばらな丘陵地を時に白い息を切らせながら自転車を走らせている。田んぼの脇で銀杏の木の葉が黄色く色付いていて、写真を撮る。上下各々一時間に一本しか停まらない新幹線の駅を覗く。大学需要があるからか立派なホテルが数棟建っている。時々スマートフォンで今いる位置を確認しながら気ままに進む道を決める。池のほとり、幹線道路、畑の間、林の中。小さな神社。途中の公園でムスリムの母子グループがピクニックをしていた。

正午過ぎにアパートに戻ると約束通りいくつものパンが用意してあった。メロンパンやクロワッサン、ぼくの好みの総菜パン。娘の夫も帰ってきて、四人でおしゃべりをしながらそれを食べる。彼は食べ終えるとまた大学に戻って行った。

ぼくは一休みしてもう一度自転車に乗ることにした。さっきは田舎の方を走ったから、今度は市の中心の方へ向かった。事前に調べておいたコーヒー店に入り、焙煎した豆を挽いてもらう。自分用とコーヒーが好きだという彼の分。店内は思ったより混んでいた。

そして在来線の駅裏の神社。もうその頃には陽がずいぶんと傾いてきていて、境内はほとんど人がいなかった。まだ少しやり残したことがあるのだけどできそうにないし、これ以上暗くなると自転車では走りにくくなるから、もうアパートへ帰ることにした。今日はずいぶん走った。普段のぼくならヘトヘトになるところだけど、案外そうでもなく、気持ちの良い疲れを感じていた。背中のリュックからコーヒーのいい香りが漏れてきていた。

市街地を抜けて少しだけ寄り道をして、アパートからは遠くない、平らな農地が広がる場所で自転車を降りてみる。もう日は暮れている。夜の色が空を覆い尽くす前の、一日で最も美しい時間。娘にはこの七年間色々あった。体を壊して地元に戻ってきていた時期もあった。それでも入学当初から付き合っていた彼の存在があって今がある。最終的にはここに来てよかったのだと思う。誰かにそれを感謝したくて一日自転車で走りまわっていた。それだけが心残りだった。

ふと、夕空を見上げてみるとそこに何かの気配を感じた。あ、伝える相手はここにいたんだ、と気付く。ありがとうございました、と声を出したら、向こうに届いたような気がした。しばらくそこに佇んで闇に体を馴染ませてからアパートまでゆっくりと自転車を押して歩く。みんなと合流し、近所の店でテイクアウトしたお好み焼きを四人で食べた。今まで食べた中で一番おいしいお好み焼きだった。

もちろん、広島風だ。


いいなと思ったら応援しよう!