祖母が危篤になって、命と人生について考えた。
——連絡があります。
水曜の夜、演技のレッスン終わりにスマホを開いたら、家族ラインに通知が来ていた。
おばあちゃんが危篤。今病院にいます。
その短い文面をみて、サーっと心が冷えていった。
おばあちゃんは99歳。いつどうなってもおかしくない。そんなのわかってたはずなのに、心は追いつかない。
時間は21時半。東京から実家の長野に帰るバスの便はもうない。明日帰ろ、と心に決めて、あとはひたすらにおばあちゃんの無事をじっと祈った。
大正の時代に生まれ、満蒙開拓を乗り越えて、いまを生きるおばあちゃん。
これまで懸命に生きてきただろう過去が、頭にすっと浮かんで、何だか後ろめたく、申し訳ない気持ちになった。
もう、死のっかなー。
ちょうど自分が、連絡がくる前日にそんなことを考えていたから。
本気で何か行動に移そうってほどじゃないけれど、別に気安く「死にたい」って言ったり思ったりするタイプじゃないから、それ相応に病んではいた。
学校も演技のクラスもない日に、ただベッドに横になってスマホを触り、半分くらい開いた目を下に落として、流れてくる他人のSNSを無感情で見つめる。
美人やカップルの投稿が目に入るたびに、少しずつ心が湿っていく。ため息をついてスマホをベッドに捨て、虚ろな目で部屋の白い壁を見つめる。
乱雑に積み重なった書類、転がっている空きペットボトル、菓子パンやおにぎりが入っていたコンビニ袋、脱ぎ捨てたカーディガン、、
だらりとした時間が流れる部屋にいると、沼にはまって抜け出せなくなりそうで、重たい腰をあげ、何とかそれなりの服に着替えて外に出た。
ダボついた上下の服に、日焼け止めも塗っていないくすんだ顔を、帽子とマスクで隠してうつむきがちに歩く。
背中が丸まってるのはわかるけど、身体のどこにも力を入れなくてすむ一番楽な姿勢だから、それを変えるほどの馬力がない。工事の人の視線を気にしながら、足早に通り過ぎる。
最寄りのコンビニで、適当に菓子パンやおにぎり、揚げ物を買い、また急いで家へと戻る。
目の前を物事が通り過ぎていって、私は何も考えずに毎日を通り過ごしていて、目の前にある食べ物が私の体内に入っては出ていく。
目の前のできごとに心が動かない。ただそこに存在し、ただ生きているだけ。虚ろな目で世界を見つめているだけの、感情のない動物。
私は、生を消費していた。
命を無駄にむさぼっていただけだった。
そんなゼリーの中にいるような失望の日々を送っていた中で、おばあちゃんの危篤の知らせを聞いて。
例えここで亡くなったとしても、99歳まで生きて「大往生」を遂げたと言えるだろうおばあちゃんと比べてみたときに、
自分の「命の使い方」が恥ずかしくなった。
以前にも、おばあちゃんの入院をきっかけに大事なことを思い出したことがあって。
もしこのまま、おばあちゃんがこの世を去ってしまったら自分は色んなことを後悔するかもしれないな。と思い、とりあえず実家に帰ることにした。
————結果、おばあちゃんは無事だった。
「会っておきたい人がいたら、すぐ呼んでください」とまで先生から言われ、一時は40まで下がった血圧も120まで回復し、意識も戻って会話ができるようになった。
少しだけ病院におじゃました時、ほとんど見えてない目を必死に開けて、歯もなく舌の筋肉も衰えている中で、懸命に言葉を発そうとするおばあちゃんをみて、その命を全うする姿を敬い、静かに反省した。
私はまだ23歳で、死のデッドラインを意識して日々を過ごすことはあまりないし、まだまだ周囲の恩恵を受けて生きているうえに、注がれている愛情にも充分に気がつかず、自分のことばかり考えて生きている。
だけど、60後半の父は病を患っているし、今回は無事だったおばあちゃんもまたいつこういう事態になるか分からない。
軽率に扱っていた命の尊さを、少し身に沁みて感じることができて、心の中でごめんなさいと謝った先週の出来事でした。
家にはちょうどこんな本もあったり
これも読んだら素敵なお話で
私の人生は、雨宿りをする場所じゃない。土砂降りの中に飛び込んで、ずぶ濡れを楽しみながら、思い切り遊ぶ場所なんだよ。あなただって、本当は、そうしたいんでしょ? (本文引用)
無為に過ごしていた日々に終止符を打つきっかけをくれた、おばあちゃんや本に感謝しながら、実家での日々を過ごした週末でした。
よく考えてみたら、この当たり前にテーブルを囲んでおやつを食べる時間でさえ、家族そろって笑っていられる今って、抱き締めたいほどすごく価値があるんだと感じて、それを味わうように過ごしました。
次がないんだと思えば、今この一瞬を大事にする。そんな当たり前のことに、今さら気がついた帰省の3日間。
また来ようと思います。
柿取りなどもしました。
おわり
心躍ります^^♪