読書感想文と批判的思考(2024)
読書感想文と批判的思考
Saven Satow
Jul. 03, 2024
“Critical thinking is reasonable reflective thinking that is focused on deciding what to believe or do”.
Robert H. Ennis ”Critical Thinking”
1 2種類の作文術
夏休みになると、日本の初等・中等教育では読書感想文の宿題がしばしば出される。これは作文教育における重要なフォーマットの一つである。それは「青少年読書感想文全国コンクール」を始め数多くのコンテストが国内で開催されていることからも強調される。こうしたコンクールは小学校低学年から高校生までの学校教育段階に応じて部門分けされ、分量は原稿用紙換算2~5枚程度である。応募者が自由に作品を選べる場合もあるが、主催者が指定する課題図書を扱わなければならない場合もある。日本の学校教育の経験者であれば、たいていは読書感想文を書いたことがあるだろう。
しかし、読書感想文は普遍的な叙述形式ではない。「5パラグラフ・エッセイ(Five Paragraph Essay)」が世界標準的なフォーマットである。発祥の地であるアメリカでは最も基礎的な作文術で、中学校から本格的に学び始める。これは汎用性が高く、意見や説明、報告、論文など論述の散文はこのフォーマットに沿って記述される。読者も、作者同様、この作文術を学んでいるので、それを共通認識として文章に目を通す。英語の国際共通語化に伴い、5パラグラフ・エッセイは作文のグローバル・スタンダードとなっている。
日本でも、大学に入ると、論文制作のためアカデミック・ライティングを学習するが、その元になっているのが5パラグラフ・エッセイである。また、大学入試に出題される小論文はこの下準備で、その段階では読書感想文との違いを学ぶ程度である。作文の学習においてアメリカでは中等教育と高等教育が一貫しているのに対し、日本は断絶している。
読書感想文と5段落エッセイはいずれも教育カリキュラムに取り入れられた作文術である。けれども、両者は目的や構成などが異なっている。それは一方がドメスティックで、他方がワールド・ワイドというだけではない。根本的な発想に違いがある。中でも、クリティカル・シンキングに関して、読書感想文は5段落エッセイと異なり考慮していない。だからこそ、批判的思考が不可欠なアカデミズムの場である大学において読書感想文に代わって5段落エッセイが必要とされる。
読書感想文は形成過程において日本近代文学の潮流に影響されている。そのため、それはクリティカル・シンキングを求めていない。それについて考察してみよう。
2 日本の作文教育
読書感想文が国語教育のカリキュラムに採用されたのは戦後からである。それは、1955年、全国学校図書館協議会が「青少年読書感想文全国コンクール」を開催したのを契機に全国的に広がり始める。現在も続く同賞のサイトによると、その目的は児童生徒や勤労青少年を対象に、読書活動の振興や青少年の良書への関心を高めることである。読書の感動を文章に表現することを通じて、読書の楽しさや素晴らしさを体験し、考える力を育むことを目指している。多数の企業が支援、文部省も後援したこのコンクールに、全国の多くの教師が賛同し、読書感想文というフォーマットが作文教育に浸透するきっかけとなる。
こうした受容には読書感想文を歓迎する作文教育の事情が認められる。それにはその歴史が影響している。そうした1955年以前の時期は明治期・大正期・戦時下・戦後改革期に大きく分けることができる。この4期は段階的にというより、揺れ動くように変化し、それが読書感想文登場につながっている。
明治期の作文教育は古典主義で、手本模写が中心である。小さな大人という子ども観に基づき、当時の社会で大人として暮らすために必要な作文の知識を教師が児童生徒に注入する。子どもたちは、手紙を始めとするさまざまな実用文や古典の漢詩文を模写して定型文の書き方を教わる。言文一致運動が展開されているものの、口語体の使用は非常に限定されていたので、作文指導も文語体を採用している。
大正期の作文教育はロマン主義で、代表が生活綴方である。大正時代を迎えると、アメリカの新教育の影響を受けた自由教育運動が活発化する。ロマン主義に基づき、子どもの主体性や自発性が尊重される。都市部で盛んな自由教育運動に対して現実から遊離しているとの批判も農村部の教育者から出たが、作文教育に関しては児童生徒による題材の自由選択や口語体を使用した感性重視という点で共通している。それを象徴するのが生活綴方である。子どもたち自身に生活上の出来事の体験やその思いをあるがままに作文にするというものだ。こうした童心主義的作文章作品は児童文学雑誌『赤い鳥』が取り上げるなど新たな作文教育と同時代的に広く認知されている。
しかし、戦時下に入ると、生活綴方は政府・軍部によって否定される。困窮に苦しむ農村の実態をありのままに子どもに書かせるということは反体制的というわけだ。少国民たる児童生徒が書くべきことは軍国日本における模範的国民の姿である。教師は国家のスローガンに沿った愛国作文を添削指導する。作文もまた国への奉仕という時代で、その教育は軍国主義に支配される。
終戦後、アメリカの進歩主義の影響を受けた教育の民主化に伴い、作文教育でも生活綴方が復活する。、無着成恭の『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』(1951)ふぁその代表例である。しかし、いくつかの問題が持ち上がり、その実践は頓挫する。貧富を含め生活には格差があり、教師がそれを描いた作文を標準的評価に基づいて指導することは難しい。また、私小説よろしく、子どもが自分の生活をありのままに書くことで、家庭のプライバシーが暴露されかねない。生活綴方は戦後民主主義の思想とぶつかってしまう。
そこに登場したのが読書感想文である。教育改革が進められる中、読書教育が重視されるようになる。それを背景に、読書感想文は、生活綴方のフォーマットを借りながら、生活の描写を読書体験に置き換えたものだ。児童生徒の読書であれば、生活と違い、作文の指導・評価も標準化しやすい。また、個人の読書体験だから、家庭の状況への言及も抑えられる。1955年以降、学校の国語教育において読書感想文が重要な役割を果たすようになり、多くのコンクールが開催されていく。
3 読書感想文の特徴
大正時代より日本はアメリカの教育理論・実践から影響を受けたが、理解にはズレがある。アメリカの中心的思想は経験主義の範疇に入る。この思想は経験科学を参照した経験主義である。仮説を立て、それに基づいた観察や実験を行い、その結果を検証する。この発想に立脚して、実体験を重視し、子どもの自主性を尊重するので、理論・実践は理性主義である。ところが、日本はアメリカの経験主義を感覚論として受容する。それはロマン主義に接近し、理論・実践は感性偏重となる。実体験を重視して子どもの主体性を尊重することは感性を自由に伸び伸びと育つようにすることと解される。作文教育でも大人は子どもに形式にとらわれず、自由に思ったことを欠くように勧める。しかし、その内容にはロマン主義的傾向がある。
読書感想文が学習カリキュラムに採用されているのは、教育的効果が認められているからである。それは、1955年以来、多数のコンテストが国内で開催されていることからも明らかだろう。実際、主催者は、コンクール実施に際して、その教育的意義を公表して作品を募集している。読書感想文は教育の一環で、本大会はそれに寄与することを目的としており、商業主義的動機に基づいてなどいないというわけだ
先に触れた青少年読書感想文全国コンクールは最も代表的なコンテストの一つである。1955年に始まった同大会は2024年に70回目を迎える。
青少年読書感想文全国コンクールは、第70回の開催に際して、「応募要項」において開催趣旨について次のように述べている。
◇子どもや若者が本に親しむ機会をつくり、読書の楽しさ、すばらしさを体験させ、読書の習慣化を図る。
◇より深く読書し、読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む。更に、自分の考えを正しい日本語で表現する力を養う。
このような教育的効果が認められるので、読書感想文は作文教育において重要だということになろう。コンテストはこうした意義に基づく実践であり、教育に貢献しているため、長きに亘って継続しているとサイトでも誇らしい。
この開催趣旨は読書感想文の特徴を凝縮している。特に二つ目の中の読書を通じて「豊かな人間性」を育むことが目的とすれば、それは書評とは違う。批評家が書評を書くのは自身の「人間性」を豊かにするためではない。もしそうなら、小林秀雄や吉田健一は聖人君子ということになる。読書感想文は、文学作品を扱いながら、批評することとは異なる特徴を持っている。それは次の三点に要約できるだろう。
第一が印象を重視した文学的鑑賞である。ただし、「より深く読書」することを求めているものの、一つ目の趣旨が述べているように、文学的知識がさほど求められない。文学史の参照や作者の他の作品との関連、同時代的社会の影響、研究の歴史など理論的体系への位置づけは不要だ。読解は対象作品に限定されるので、「自分の考え」と言っても意見ではなく、印象が主眼となる。作品の全体像や作者の意図、構成する描写を理解し、筆者は物語のテーマ、作品の背景、登場人物の心理に関する「自分の考え」を記述する必要がある。
第二が豊かな感情表現である。「読書の楽しさ、すばらしさを体験」と言っているように、読書感想文は読書体験に対する感情や印象を詳細に表現することが重視される。読んだ本に対する感動、登場人物との共感などを掘り下げ、「自分の考えを正しい日本語で表現する力」を示すように、それを感情豊かに表現することが求められる。筆者は作品をめぐって客観性を意識しつつロジカルに考察するのではなく、その主観的な読書体験の印象をレトリカルに描く必要がある。
第三が読書を通じた個人的な成長や学びである。「読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む」ことが何よりも重要だ。読書感想文には、その作品を読むことで得た道徳的成長や学んだことを強調することが求められる。この読書によって、教養小説のごとく、自分自身の生活や価値観にどのような影響を与えられたかを書く必要がある。その本を論じると言うよりも、それを読んだことで生じた内的変化、すなわち読む前と読んだ後で自分がいかに変わったかを告白するのが読書感想文である。もちろん、書評は信仰告白ではないので、こうした改宗体験の言及は不要である。
これらが読書感想文の大きな特徴である。それは文芸批評と異なっている。読書感想文は対象作品に抱いた印象をきっかけとする。客観性を意識して論理的に論じるのではなく、それを読んだ主観的体験を感情豊かな修辞法によって表現する。その際言及しなければならないことは読書を通じて得た精神的成長や学びである。論拠に基づいて作品に関する意見を述べるのではなく、読書体験によって生じた内的変化を表現して読者に共感を求める。こうした特徴の読書感想文は批評ではない。教育的意義に奉仕する作文である。
4 読書感想文と日本的エッセイ
印象や主観性、修辞性の重視という傾向の読書感想文は日本のエッセイに近い。もちろん、それは多様であり、標準形として比較することは適当ではない。また、読書感想文は対象を文学的作品に限定しているが、エッセイは幅広い。しかし、コンテストが募集するエッセイは概して読書感想文の延長線上にある。テーマはさまざまであるとしても、実体験を元に、それを通じて抱いた思いを感情豊かに表現するというものだ。これは生活綴方を思い起こさせる。読書感想文がそこから派生したのであり、その意味で日本的エッセイは構造的に類似している。
日本では非常に多くの組織や団体がエッセイのコンテストを開催し、作品を公募している。インターネットで検索すると、その数と主催の多様さに驚かされる。JICAや津田塾大学、日本聖書協会、「小さな親切」運動、泉大津市、岩手日報社などこのリストはまだまだ続く。ただ、テーマを別にすれば、募集する作品傾向は似通っている。実体験を元にして、そこから得られた感慨を文章にしたものだ。
例えば、一般社団法人 食とコミュニケーション研究所は、「第4回食とコミュニケーションエッセイコンテスト」の募集に際して、作品について次のように述べている。
「食」と「コミュニケーション」にまつわるエッセイを募集します。第4回コンテストまで毎年多数のご応募を頂いています。受賞作品は「笑顔のかたち」として食とコミュニケーション研究所出版会から出版しています。2024年度の第5回コンテストも、実話を基に創作されたエッセイを募集することになりました。実際に経験されたことから得られたこと、日頃思っていること、願いなど、当事者やその家族、社会が笑顔になる作品をお待ちしています。
他のコンクールもほぼ同様である。テーマを示し、それに沿って、実体験を元にした直観的な思いを記した小品を求めている。理性と言うより、感性に訴えるこうしたエッセイは生活綴方の際限であり、読書感想文から遠くない。
読書感想文は生活綴方の構造を借用し、対象を生活から読書に置き換えたものだ。こういう交換が可能だったように、このフォーマットには拡張性がある。それを利用すれば、読書を他のテーマと入れ替えるだけで、エッセイへと変換する。日本的エッセイはこの生活綴方のアルゴリズムを読書感想文と共有している。
コンテスト主催者がこういったエッセイを募集する理由は作文教育が影響しているだろう。その基本は読書感想文である。書く側も読む側もこのフォーマットを共有している。そのため、どのような作品がよしとされるかという評価基準もお互いに理解している。コンクールを開催して、作品を広く一般公募するとなれば、それは義務教育から学んだ読書感想文に類するものとならざるを得ない。
4 作文と私小説
読書感想文と日本的エッセイは、いずれも主観的な体験を重視している。扱う対象は異なるものの、ロジックよりもレトリックを優先させ、それがもたらす精神的成長や学びを描く作文である。しかし、そこで表現されたものは共感が生じたとしても、認識が発展していく余地がない。批判的思考に欠けるからだ。読書感想文や日本的エッセイは、主観的体験に基づき心理の流れを描写するのだから、論述ではなく、次の三店から感が手もストーリー性の弱い私小説である。
第一に、日本の作文は反省的思考が乏しい。他者に向けて意見を述べる場合、批判的思考が必須である。確かに、断酒会のように、同じ問題に取り組み、その克服を目指す人たちが一切の批判をせず、お互いの告白を受け入れることの実践的効果は認められる。参加者は、共通認識を基盤にしながら、実体験と抱いた考えをありのままに語ったり聞いたりして、自己肯定感を高め、協同して精神的に成長して行こうとする。しかし、読書感想文やエッセイは背景を異にする他者に向けて書くものだ。他者の反論を想定して、自分の主張に対する反省的思考が不可欠である。
第二に、主張を一般化するための体験の抽象化が希薄である。体験が思考の契機や認識の発見につながることはよくあることだ。主観的経験がその出発点であって構わない。ただ、それはあくまで個別の具体例である。主張する際には体験は論拠の一つであって、他の事例と比較したり、理論によって補強したりするなどして抽象化を行い、一般化することが必要だ。そういった客観性を意識した手続きがなければ、主観的な思いこみや思いつきではないのかと容易に反論されてしまう。「自分の考え」を一般化するための体験の抽象化が日本の作文には十分に認められない。
第三に、日本の作文は修辞性に依存し、構成が論理的ではない。自身の体験を相対化せず、それを感動的なレトリックによって絶対化するとしたら、それは論述ではなく、物語である。エッセイの文章の構成法として序破急や起承転結がしばしば説かれる。しかし、前者は脚本、後者は漢詩の創作法で、論述のそれではない。ロジックに依拠して相手を説得するよりも、レトリックによってうならせることを狙うものだ。そうやって拵えた作文は、実体験を元にしながら、感動的なレトリックで共感をいざなう物語だ。従って、作品世界の主人公は私であり、読書感想文やエッセイは筋の弱い私小説である。
私小説は日本近代文学の主流のジャンルである。それは作者が直接に経験した事柄を素材にして、ほぼそのまま書く小説だ。政教分離に伴い、近代では個人に価値観の選択が委ねられる。内面の自由が保障され、近代文学は社会の中で独自の価値観に基づく心理的ドラマを扱うようになる。私小説はこうした原理に則りながらも、主人公が自分の世界に没入しているため、自身を相対化する認識に欠け、社会性が認められない。反省的思考がないため、作品は作者の印象や気分の記述に溢れ、独特のレトリックに覆われたその世界はしばしば幼稚である。しかし、こういった私小説は西洋の近代小説と比較してさまざまな点で批判されてきたが、日本近代文学の主流派であることは確かだ。
こうしたジャンルが本流の一つになった理由には写生文に基づく評価基準を挙げることができる。日本の近代文学は前近代と断絶するため、新たな文章の評価基準が必要になる。そこで、近代美術をヒントに正岡子規が写生文の理論を提唱する。それは対象をあるがままに描写する文章がよいとするものだ。私小説はその実践であり、日本近代文学の本流の一つの地位を獲得する。
大正時代に始まった生活綴方には、写生文からの影響が認められる。前近代を引きずった作文教育を近代化する際に、近代文学の重要な評価基準を提供した理論を踏まえることは自然な流れだ。だが、そうすれば、生活綴り方が私小説のバリエーションとならざるを得ない。
5 子規と批判的思考
読書感想文は日本の初等・中等教育における中心的な作文のフォーマットである。それは、主観的印象や修辞性の偏重、読書を通じた内面のドラマといった特徴がある。この作文形式は大正時代に登場した生活綴方をモデルとしている。実体験を元に、そこで抱いた思いをありのままに描く生活綴方は現在の日本的エッセイの原型でもある。こうした作文術は、正岡子規が提唱した写生文に基づき、日本近代文学の本流の一つである私小説から影響を受けている。そのため、読書感想文にはクリティカル・シンキングが希薄で、論述ではなく、私小説のバリエーションである。
しかし、子規が提唱した写生文の理論を私小説が体現していたとは言い難い。と言うのも、子規のエッセイには批判的思考が認められるからだ。
ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、写生文の提唱者である子規の随筆がその理論の影響下にある私小説と決定的に異なると次のように述べている。
子規の歌や句は今日でも文庫本その他で版を重ねているが、その随筆はあまり広くは読まれていない。しかし私としては、「墨汁一滴」や「病牀六尺」に、明治の文学ではそれ以外に啄木の日記にしか見出せない魅力を感じて、私小説では、その作者の生活がいかにこまかに描写されていても、その中心になるものが抜けているという印象を我々が受ける場合が多い。それを書いた人間が、不幸で一人ぼっちで、あるいは社会から締め出されているということはわかっても、その人間が他の同じように神経質な人間とどう違うかがはっきりしないのであるが、子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲は、そういう私小説の作家の陰気な内省の記録には稀にしか見られない活力を、彼の随筆に与えている。
私小説化は実体験を元に、そこで抱いた印象を書いているが、自身を相対化していないので、読んでも、その同類といかに異なっているのかわからない。一方、子規は自分の体験を対象化した上で、それを分析して意見を述べている。彼は自身の認知行動に対するメタ認知を持っている。それがクリティカル・シンキングである。写生文はメタ認知から対象をあるがままに捉えることであり、経験科学的な姿勢だ。
その意味で、読書感想文や日本的エッセイには十分な理論的裏づけがない。ただ、歴史的に継続してきたという事実があるだけだ。そこにはメタ認知がない。
近代は政教分離に伴い、個人に内面の自由を保障する。作家が自分の意思でそれを描くことはかまわない。しかし、大人が子どもに作文教育だからとして内面を文章化させることはこの原理に反している。裏づけがないどころではない。読書体験を通じた豊かな人間性の成長を評価するなど内面の自由の侵害だ。読書感想文という制度にはあまりにもクリティカル・シンキングがなさすぎる。
〈了〉
参照文献
ドナルド・キーン、『日本の作家』、中公文庫、1978年
佐藤秀夫、『新訂教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
辻本雅史 『教育の社会文化史』、放送大学教育振興会、2004年
中村光夫、『明治文学史』、筑摩書房、1963年
無着成恭、『山びこ学校』、岩波文庫、1995年
がくまるい@教育学部助教Vtuber、「読書感想文の歴史と問題点:本を読んで成長した物語を書く作文【教育学】」、『note』、2023年8月31日01時26分配信
https://note.com/gakumarui/n/n887f0c56e2f1
「第5回エッセイコンテスト作品募集」、『一般社団法人 食とコミュニケーション研究所』、2024年6月17日更新
https://fc-science.or.jp/project105.html
『青少年読書感想文全国コンクール』、
https://www.dokusyokansoubun.jp/