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もしも私が名乗るなら
10年前の今日、私はFacebookにこんな記事を投稿していた。
私が『建築家』を名乗ることは、今も昔も将来的にもないのだが、建築士として設計し、監理する際の立ち居振る舞いとしては『ファシリテーター』でありたいとは常々思っていることである。
ちなみに、『ファシリテーション(facilitation)』や『ファシリテーター(facilitator)』の定義について、特定非営利活動法人 日本ファシ
果たす役割があるならば、私が何者でも構わない
12年前の今日、私はFacebookにこんな記事を投稿していた。
『私はこうありたい』と考えることは大事だが、『私は何者か』を考えたところで、私がリアルタイムに自覚することはほぼ不可能だと思う。
なぜなら、それは私の周辺環境が作り上げるものであり、私の後についてくる『おまけ』のようなものだから。
公私を問わず、有形無形に関わらず、どんなに些細なことであったとしても、私の目の前に自身の果たすべき
私が私から解放される日は来るのか
私は、拝郷メイコさんがTwitterに投稿したこの言葉に釘付けになったことがある。
私はその日のうちに、自身のFacebookでこの言葉を引用投稿している。
2017年9月13日に私は、その引用投稿を偶然発見し、改めてノートに書き留めた。それが冒頭の画像である。
そして今日、不意にこの言葉をまた思い出し、今度はnoteに書き付けている。
私はよほど、この言葉が気になっているようだ。
気になる
保留することができる余裕と勇気
11年前(2013年)の今日、私はFacebookで、こんなことを書いていた。
当時の私は内田樹さんの書籍を読み漁っていて、その中にこういうことが書いてあり、それをおおよそトレースしたのがこの投稿。
『待ったなし』や『決断が迫られる』などといった、考える余裕を失わせるような言葉が世に飛び交っていたことについて、私は大変つらい気持ちを抱えていたと記憶している。
そんな時に、心底共感できる言葉を
掬えたものは『金魚』ではなく、『いまの自分』だったという思い出
11年前の今日、私はFacebookにこんな記事を投稿していた。
子どもの頃は金魚をすくい上げたい一心で、すぐにポイの紙が破れていたのにね。
歳を重ねるに連れ思うのは、『慎重な中にも思い切りが欲しい』ということだったりする。