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“分かり合えないこと”も含めて分かり合うということ
人生の折り返し地点を通過する年齢となり、私がこの世に生を受けてからこの世を去るまでについて、私の記憶にない頃のことや、経験したことのないことをリアルに想像する機会が増えてきた。
もう少し詳しく書くならば、我が親が私とどのような想いで向き合ってきたのかということや、我が子が成長の過程で経験していることを私も経験したであろうということ、私に起こるかもしれないこれからの出来事などをリアルに想像する機会が増えてきたのである。
端からすれば「何を今さら」な話なのかもしれないが、例えば『親の心、子知らず』ということわざについて、「なるほど、そういうことなのか」と身に染みて思えるくらいまで、その言葉の理解が深まったように思う。
このことは家族のことに限らず、仕事や学業、友人知人との関係についても然り、である。
親族をはじめとする近しい人の訃報に触れて故人に思いを馳せる機会が増えたことや、我が子が誕生し成長する姿を目の当たりにするようになったことなどから、折に触れてこのようなことを想像するようになってきた。
そして、人生は人の数だけ存在するのだという、至極あたり前のことに思いを巡らせとき、「だから私はいろんな人と話をしたいのだ」と改めて考えるに至った。
人と話をしていると、私が納得し共感できる内容もあるが、中には私が想像だにしていなかったためにひどく驚き、すぐには受け入れかねるような内容もあったりする。
相手も私に対して同じようなことを思っているだろう。
私たちは、分かり合えるかもしれないし、分かり合えないかもしれないのである。
『分かり合えないこと』をも分かり合えれば、人は力強く前を向いて歩むことが出来るのだと、私は思っている。
このことについて、私の中で公私の別はない。
至極難しいことではあるけれども、私にとっては欠かせない。
目の前にいる人について、関心があるからこそ、こういうことを考えるのだろうと思う。
目の前の出来事について、すぐに諦めたり、投げ出したりはしたくないからこそ、こういうことを考えるのだろうと思う。
誰にも関心を示さず、すぐに諦めたり投げ出したりすることほど、つまらなくて寂しいことはないと、私は思う。