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100万字書いたら、自己表現に興味がなくなった話。


やっと、ここまで来た。

500日前に始めたnoteの毎日更新だったが、500日間、公開ボタンを押し続けた結果、毎日更新500日を達成していた。

おつかれさま、わたし。
そして、読んでくださるみなさま、ありがとうございます。

読んでくださる方があって、500日を達成できました。心から感謝しています。
改めて、お礼申し上げます。

☺︎☺︎☺︎


この500日間は、いろいろな変化があった。
変化と一口に言っても、日常生活は何も変わっていない。

変わったことというのは、わたしが書きたいもののことだ。それは、人から見れば小さな変化かもしれない。しかし、わたしにとっては、大きな変化である。

せっかくの節目なので、ここにわたしの変化をまとめておこうと思う。

かなり個人的なまとめです。
思考の垂れ流しです。
「ふーん」ぐらいの感じで読んでいただければ、幸いです。



✏︎ 自己表現に、興味がなくなった。


いきなり結論から。

今のわたしは、自己表現に興味がない。
ないこともないかもしれないが、「内から湧いてくるような、声高に訴えたいことがあまりない状態」というのが、正確な表現かもしれない。
※ビールへの愛を叫びたくなる以外は

500日間で、およそ100万字を書いて、自分の書きたいことを書き尽くしたのかもしれない。
そもそも、そんなに言いたいことがなかった気もする。自分でもよく分からない。

それが自己表現に興味がなくなった、という話の結論になる。


どうして自己表現に興味がなくなったのか。
そのうえで、何を書くのか。

それを、書き進めながら考えてみたい。



✏︎ 書いたら、癒された。


noteを始めたのは2023年。
きっかけは、自分を表現したいということだったように思う。

お恥ずかしい話だが、井の中の蛙だったわたしは、40歳を過ぎても、自分が特別な人間になれる可能性を信じていた。ここで言う特別な人間というのは、才能あふれる著名人みたいなイメージ。

20代の頃から、わたしは物語を綴ったり、詩を書いたり、絵本を作ったりもしていた。実生活のわたしの仕事は、クリエイティブなものではない。友達が少ないわたしの周りには、創作をしている人はいなかった(知らないだけかもしれないけど)。

だから、創作ができる自分というのは、特別なのかも、と淡い期待を抱いていた。

単純なわたしは、創作物を作っては、公募に出した。
しかし、そう簡単にうまくいくはずもない。そんなことを数年続けて、才能ないんかな、と思った。もうやめよ、とも思った。

そして、実際に創作することをやめた。


その時に、創作大賞2023を知った。
タグをつけて記事を公開するだけで応募できるという簡単なしくみは、くすぶっていた創作への火種に着火した。わたしは自分の才能を見出してほしいという気持ちで、noteのアカウントを作り、記事の公開を始めた。


自分を認めてもらいたい。

シンプルにそう考えていたわたしが書くものは、いかに自分が優れた人間か、ということを強調するような下心が練り込まれていたものだった。自分が大変だったこととか、こんなにがんばったんだ、みたいな。

正直、その下心は嫌いではない。むしろ、好き。

だから、過去のわたしを否定するつもりはない。
自分を尊重して欲しいと考えることは、割と普通のことだと思っているし、そう考えることができるのは大切なことだとも思う。がんばっていることを認めてほしいというのは、至極当然なことだろう。

そんな感情をしたたかにしたためては、文章を公開した。認められることを目的として始めたnoteだったが、コレが意外な効果をもたらした。

書くことには、癒しがある。


わたしは、書くことの癒し効果を実感した。認めてほしいと思いながら書いていた文章は、わたし自身を癒してくれた。書き終えた文章を公開すると、心が軽くなっていたのだ。

癒し効果は、書くという行為そのものにあるような気がしている。

noteを書く前は、日記を書いていた。
その時も同じように癒し効果を感じていた。書くとスッキリするし、頭の中がリフレッシュしたような感じになる。

書くことは、自分のことを俯瞰で見たり、考えを整理することができる行為だと、わたしは思っている。
さらには、自分が執着しているものを、書くという行為でアウトプットし、一旦、手放す。それにより、なんだか心が軽くなる気がしているし、絡まった思考が紐解けるような気もしている。

今まさに、この文章を書いているのも、自分の考えを整理したいと思いながら、書き進めているところだ。

noteで文章を公開することは、日記を書くより、より一層、自分を癒す効果を感じることができる気がする。それは、人目に触れる文章を書く(文章を書いて公開する)ということで、自分を客観視することに繋がっているからではないか、と感じているからだ。


それに、noteの皆様は優しい。

わたしの拙い文章を褒めてくださったり、スキを押してくださったり、コメントをくださったり。ここにいてもいいんだ、という自信を与えてくださる。

自己表現をしながら、承認欲求も満たされる。

書くということで癒され、公開しても癒される。
noteという場所は、わたしの癒しスポットとなった。


✏︎ 書きにくいことは、創作にしてしまえばいい。


自分の不安や不満、頑張ってきたことなどを書いて癒されながらも、もっとなにかを表現したいと思っている自分がいた。

noteを始めて、様々な文章を読むようになった影響だと思う。色とりどりの文章に心を動かされては、わたしも胸を打つような文章を書きたいと思うようになった。

わたしが胸を打たれたのは、どんな文章か。

優れた文章や面白い文章、美しい文章はもちろん感動する。憧れるし、カッコいい。
でも、それだけではなく、自分を赤裸々にさらけ出した文章。わたしは、それに胸を打たれた。

ここまで書くんだ。
ここまで、さらけ出すんだ。


わたしも書いてみたい。
でも、書けない。


自分をさらけ出すことに、わたしは抵抗があった。でも、書きたいと思ったから、これくらいなら大丈夫かな、と自分が思える範囲で過去のできごとをほじくり返して、公開してみたりもした。

スッキリするような気もしたし、書いてよかったとも思えた。でも正直なところ、そこまでする必要があるのだろうか、と疑問がわいた。

デリケートな内容を書いて公開する時、わたしは、癒し効果を実感しつつも、ストレスも感じてしまったのだ。


でも、書きたいよなぁ。
だって、認めてもらいたいんだもん。
さらけ出して、読んだ人の胸を打つ文章を書きたい。


留まるところを知らない、わたしの承認欲求。

そこで頭に浮かんだのが、創作だった。
ノンフィクションで書きにくいなら、いっそ創作にしてしまえばいい。創作の中の世界では、殺人だってありなんだし、と。

それで、小説を書きはじめた。

自分の一部をフィクションの人間に紛れ込ませて、モヤモヤとしていたことや心残りなことを、登場人物に体験させてみた。普段、書きたくても書けないことを登場人物に言わせることで、自分の中のざらついた感情を外に出すことにした。

小説を書くというのは大変な作業だと感じたが、自己表現を創作に落とし込むというのは、文章で自分を癒す作業として、非常に効果的なように思えた。

さらには、書けるという自信や、読んでいただき感想をいただけるという満足感は、これまで書いてきた詩やエッセイに比べて、大変だった分、達成感もひとしおだった。

創作という場所が、自己表現の可能性を広げてくれるような気がした。


✏︎ 認められたい自分を、手放したい。


そんなこんなで、自己表現を模索しながら、500日間、noteや公募用に小説やエッセイを書いた。

どんなものが書けるのかがわからないから、とにかくたくさん書くことにした。毎日同じ時間にキーボードを叩き、隙間時間に本を読み、自分なりに文章に向き合った。

それに、たくさん書けたら、すごいと思われるんじゃないかという下心もあった。


書いた文字数は、ざっと100万字。


エッセイは1,000〜4,000字。
小説は6〜8万字を4本。
短編小説も何本か書いた。

エッセイを平均2,000字と仮定すると、500日で100万字書いたことになる。

これが多いのか少ないのかは、わからない。
けれど、これだけ書いてみて思ったのは、わたしは、あまり言いたいことがないのだなということだった。
(※ビールが大好きだということ以外は)

実のところ、途中から書きたいことがなくなったのだ。
(※ビールや美味しいものの話以外は)

書き尽くしたのかもしれない。
(※ビールと美味しいものの話は書き尽くせない)


それに、もとから主張が薄い人間なのかもしれない。口癖は「どっちでもいい。めんどくさい」とかだし、「ビールが美味しく飲めれば、あとはなんでもいい」とも、よく言っている。
だからわたしの記事は、食と酒に関するものが多い。


でも、創作もしたいし、誰かの胸を打つものを書きたいし、誰かに認められたいし。そんなこんなで書いていたら、わたしは途中から、何も入っていない箱に手を突っ込んで、何かないかと探していることに気づいた。

はじまりが、認められたいだったからかもしれない。
承認欲求を満たすために、自己表現を無理やりに探して、書いているような時があったんじゃないか、と思った。

その下心は"あり"だけど、
あまり楽しくは、"ない"よなぁ、と。

創作大賞の中間選考が発表された時、わたしの書いたものは何も残らなかった。悔しい気持ちもあったけれど、すっきりもした。
いっそ、認められたいという感情は捨てて、好きに書いてもいいのかも、と思った。


そして今わたしは、この文章を書きながら、noteを始めたきっかけの「自分を認めて欲しい」という感情をアウトプットして、手放そうとしている。

そこには、ずっと文章を書いていきたい。
楽しく書いていきたいという、気持ちが込められている。

自己表現という抽象的なものに、縛られたくない。

執着もしがらみもなく、自由でありたい。
その時々でいいと思えたり、楽しいと思えることを書きたい。
思いついた思考のかけらを、形にしたい。

それこそが、自己表現なのかもしれないけれど、承認欲求を満たすための主張のようなものは、手放したいと思っている。


少しずつ自分を手放していって癒された結果、もっと純粋に書くことを楽しみたいな、と思った。

ここまで来るのに、だいぶ文字数を使ってしまった。



✏︎ 今から、何を書こう。


今は、ただただ、書くことが楽しい。

面白いなと思ったことを書いたり、自分の考えを整理するために文章を書くことができている(気がする)。


それが、ものすごく、楽。

書くことで自分の色々を手放していった結果、気づいたら着ていた鎧がなくなってて、身軽になったみたいな。仕事が終わって家に帰って、風呂はいってメイク落としてビール飲んで、部屋着で脱力してるみたいな。なんか力が抜けた状態。

今は、自分が楽しめるものを書きたい。
空っぽの中にぽっと沸いたものを、どう表現していくのかを考えるのが面白い。


書くことが楽しいと思いつつも、正直なところ、書くという作業は難しいとも思っている。
美しい文章も面白い文章も、気楽な文章も、そう読んでもらえるように書いたと思っても、こちらが意図したように伝わるかどうかは分からない。

書くの向こう側に、伝えるがあるんだと気づいた。
伝わらなければ、書いていないのと同じだと思った。


自己表現でなく、文章で何を表現するか。

今、わたしが関心をもっているのは、そこかもしれない。

書き続けていったら、また、変わるかもしれない。
それはそれでいいかな、と思う。
文章を書いていると、一文字目には予想していなかった結末が、1,000文字先に自分の指から生まれていたりもする。


先のことは、誰にもわからないし。



ただ、書き続けなければ、結末を描くことができないということは、紛れもない事実だと、わたしは思う。



だからきっと、わたしは明日も書くのだろう。








ここまで長々と、思考の垂れ流しを読んでくださった皆さま、ありがとうございます。
「◯◯したら、◯◯だった話」的なフォーマットの記事を書いてみたいなと思って書き始めたら、長文になっていました。

ビールが好きだと主張したい下心が丸出しです。
すみません。乾杯させてください。乾杯っ🍻

毎日更新は、とりあえず500日まではと思って続けていました。節目を迎えられて嬉しいです。やってみてよかったなと思っています。少し寂しいですが、毎日更新は、これにて一旦終了しようと思います。

いくつか書きたい小説のアイデアがあるので、小説を書きつつ、noteものんびり書いていこうかな。

これからも、記事を書けば、ぽちりと公開しますので、また、お会いできると嬉しいです。

猿荻レオン☺︎






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