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誰でも、残された時間のほうが短くなる日がくる。それを感じた時に、人生全てが愛おしく思えるんだ。

母が1月末に、かかりつけ病院で「リウマチ性多発筋痛症」と診断され、現在定期的に通院し投薬を続けている。

そして先日、母はもうひとつ病名が増えた。
「パーキンソン病」。
私の祖母であり、母の母親と同じ病気だ。

数年前から、母の歩く歩幅が狭くなり、ゆっくりと歩き、同年代の女性よりも随分と年齢が上に見えた。
手も動きが鈍くなり、趣味の手芸をしなくなり、料理も色々作って、お裾分けをしてくれていたのに出来なくなっていた。
ペットボトルのキャップも、自分で開けられず、私が開けてあげていた。

こんな世の中になる前、母と時々会っていたので、母の体の異変に気づいては、本人に病院に行くように促したが、頑固な母は「私は大丈夫だから。」と聞く耳を持たなかった。

そんな母が、病院に行ったのは、叔母がペースメーカーを入れたことがきっかけだと思う。
母も、自分の体の変化に気づいてはいたのだ。でも、それを認めることが出来なかったのだろう。
でも、だんだん動きづらくなる手が不便になり、病院に行く決心をした、そう思う。

「リウマチ性多発筋痛症」の治療はしているが、不安でいっぱいな中、3ヶ月後「パーキンソン病」と診断され、強がったり頑固な母は、人が変わったように穏やかになり、電話の向こうで弱気になった母が、涙を流すようになった。

コロナ禍で、私は実家に行かなくなった。自分がもし感染していて、高齢の両親にうつしたら大変だからだ。

昔から、ドライブをするのが好きな両親。
肺腺がんを患っている父、ふたつの病気を持つ母から、天気の良い日に、どちらかから私のスマホに電話があり、
「顔を見に行っていいかい?顔を見るだけでいいから。」と言うのだ。
その度に、「もう会えなくなるようなことを言わないでほしい。」とお断りするのだけれど、「車の窓越しで、渡すものだけ渡したら帰るから。」と、結局私の自宅前に車を置いて、物を受け取ったら帰る、ということが週に一度ある。

その時も、母の手や体の動きが鈍いことはわかるし、右手があまり動かないことも知った。

昨年クリスマスの日、両親がケーキとポインセチアの花を持ってきて、車の窓越しで受け取った。
そのポインセチアは、すくすくと育っている。そのことを父に伝えると、「そのポインセチア、枯らさないでほしい。」と言うのだ。
まるで、花が枯れてしまったら父が弱ってしまうのではないか、と私は毎日みずやりをし、日の当たる場所に置いたり、と枯らさないように注意している。


昨年、実家の六匹目の猫が天国に旅立ち、星になってから、両親はがっくりと生きがいを失ったようになった気がする。
私たち姉妹の代わりに、猫たちを娘のように可愛がり、話し相手になってもらっていたからね。

最近母は、電話で話す度に弱音を吐くようになった。
初期の肺がんになった時、主治医に「本音を言わない人」と言われていたのに。
でもあの時も、私に「いつ再発するかと思うと、怖くて眠れない。」とリビングのソファで睡眠をとっていたな。

「私の老い先は短い。長生きは出来ないことわかってるの。」と泣くから、「今は、おばあちゃんの時と違って医療も進んでいるし、治験を進めているところもあるよ。」と話しかけると、「先生に聞いたら、命に別状のある病気じゃないから、と言っていたもの。」と自分に言い聞かせるように話すので、「じゃ、あれだ。命に別状のある私のほうが先に逝くから。」と言うと、「そんなこと言わないで。おねえちゃんは長生きするから。親よりも先に死なないで。」と泣くのだ。

で、人の話は以前と変わらず聞かずに、自分の話したいことを話して、なんだかんだ理由をつけて電話を切る。

どちらの病気も、いい先生らしく病院に通って治療を受けている。
祖母も母も「パーキンソン病」。
母は、医師に「遺伝なのかどうか。」を尋ねたらしい。
私たち姉妹のどちらかが、パーキンソン病になるかもしれないことを心配したのだろう。。

母には、手が動かない日の波があるらしい。「こんな体になってしまって、おねえちゃんに何もしてあげられなくなった。」と泣くのだけど、もう充分私はしてもらった。

父の単身赴任中、母から虐待は受けていた。
だけど、母からもらったもの、してもらったものは数え切れない。

小さな頃から、色々な習い事をさせてもらい、家政科系の大学出身の母は、私たち姉妹のピアノの発表会だけではなく、普段の服も作ってくれたり、料理も上手で美味しかった。お弁当ももちろん完璧だった。早弁をするためのおにぎりも作ってくれた。
両親の仲が1番悪かった時、母は私たち姉妹が苦労しないように、炎天下の中で発掘の仕事をし、まっ黒になりながらも家事をこなした。

希望の職に就いた時も喜んでくれたし、パワハラで精神的な病気になった時も、病院を探してくれた。
転勤先にも、どんなに遠い場所でも両親は遊びに来てくれた。

そして私が今の病気になった約10年前、夫が2年ごとの転勤で単身赴任中、母は毎日塩分制限のある私のために、減塩の食事を作ってくれた。
当時すでに高齢の両親は、私の車椅子を押しながら、病院の送り迎えをしてくれたし、何とか私の気持ちが明るくなるよう、景色のいい場所、たくさんの花が咲いている公園等に行き、車椅子に私を乗せて連れて行ってくれたのだ。
商業施設にも連れて行ってくれた。
高齢の両親が、突然病気になった娘を車椅子に乗せて歩く姿。
どんな気持ちだっただろうか、、、

高齢な両親は、病気と共に生きている。出来ないこと、、きついこともあるだろうけれど、昼寝の時間を作りながらも、自分たちで生きている。

そんな両親に、雪かきすら出来ない自分が情けないしもどかしい。
私が病気にならなかったら、運動制限がなかったら、してあげられることはたくさんあったのに。

申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

あと何年一緒にいられるだろう。
もしも生まれ変わっても、今の家族ではないかもしれない。
今の家族と家族でいられるのは一度きりだ。

してもらったことを、私は私の出来る範囲で返したい。恩返しをしたいのだ。

もしも自分の手が動かなかったら、何をしてもらったら嬉しいだろうか。どうしたら楽だろうか。

私は想像する。

両親はお茶を飲むのが好きだ。
お茶って、急須の中の茶葉を捨てる時が面倒くさい。
どうしたらよいか。
お茶のティーバッグ、粉末のお茶を買っても喜ばれるだろう。

父も母も、大きな急須にお茶を作り、ポットに入れてリビングのテーブルの上に置いておき、飲みたい時にいつでも飲めるように。
ならば、お茶専用の白いバッグにほうじ茶の茶葉を入れて、急須に入れてお湯を注ぐだけにし、捨てる時もそのバッグを取り出せるようにすればよい。

私は作ったよ。↓

母は、とても喜んでくれた。
「これを作るの、大変だったでしょ?疲れたんじゃないの?」

母よ、心配ご無用!
私は暇人だから。

エコバッグも、出し入れが楽なものをプレゼントした。
たぶん私は、母が使いやすいように、色々なものを改造するだろう。
医師からは、手を動かしたりするように、と言われているので、母が出来ない時に手伝えればよいと思っている。

学生時代から両親とソリが合わなくて、虐待をする母、家庭に無関心な父に反抗し、家にいることが少なかったこの私が、両親を愛おしいと思い、両親のために何かをしてあげようと思う日が来るとは、自分でも驚いている。

病気になった時の気持ち、不安、絶望を私は知っている。
心に寄り添ってくれる人がいることも知っている。

今、簡単に会えない時だからこそ、そしてそんな時期に、高齢の両親が病気になったからこそ、私は、お互いいつまで生きられるか、一緒にいられる時間がどれだけあるかわからないけれど、この限られた時間を大切にしようと思ったのだ。

平均寿命の半分の人生を、折り返してからのそれからの人生って、とんでもなく時間が経つのが早いような気がする。
病気になったり、今のこの状況で、誰がいつ亡くなるかわからない世の中、人が生きてきた時間って一瞬なんじゃないだろうか。


そんなことを思いながら、夕暮れに見た空。

この空を見ていたら、頭の中では「King&Prince」の「君がいる世界」が流れた。今のこの時期、この優しさに溢れた曲は、人の心を癒やしてくれる。


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