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ミシェル・ザウナー『Hマートで泣きながら』をよむ。

祖父を看取ったのは、2月の暮れのことでした。

経口摂取が難しくなった時期からみるみる体調は悪化。食べることが大好きだった祖父は、まさに「人生の楽しみ」を奪われる感覚だったと思います。骨上げを終えた翌週から緊急事態宣言に入ったことや、生前お世話になった教会の牧師先生や長老先生方に囲まれながら見送れたのは奇跡的と表現する他ありませんでした。得体の知れぬ喪失感と解放感。

生まれて間もなく母は2人目の出産準備に入り、祖父母宅に預けられる機会が増えた。祖父は主宰にとって育ての父親そのものでした。色々な思い出がありますが、特に印象に残っているのは祖父が美味しいご飯を前にニヤけを抑え切れない、何かそんな恍惚の表情だったのでした。晩年四半世紀近くを病床で過ごした祖父は、サーモンが食べたい、家に帰りたいと繰り返した。

長田弘の詩集に『食卓一期一会』という作品があります。

美味しい食卓がおいしい人生を紡ぎ出すということ、時に大切な記憶と強烈に結び付くものであること。そこには哲学があり、また矜持があって。祖母の作る最高のご飯が、90年近い生涯を形づくったのだと信じてやみません。コロナ禍に伴う心身の不調の多くは食由来のものではなかろうか、どれだけ時間や心に余裕がなくとも必ず二品目は摂りなさい。と彼女の言葉は堅い。

祖父はまた、ひどく音楽を愛する人でした。

彼の喜びは、「音楽を楽しむこと」そのもので。術後半身に重たい障がいが残りながらも、しっかりはっきりとした記憶を頼りに思い入れのある軍歌やクラシック名曲の数々を、家族や支えて下さる看護師さんの前で歌って披露してみせた。愛する妻もまた、消え行く意識の中でも決して諦めず、最期の瞬間まで彼の耳元で歌うことを止めなかった。

祖父のもとを訪れた時は必ず、ラジカセで「別れの曲」を流して帰るのが日課でした。優しく微笑みかける姿を見守って、静かに病室を去る。またね。今度はいつ会おうか。いつその時が来ても良いようにと、遺影はどれを選ぼうかなんて嘯きながらコーヒーを囲んだ記憶が今も鮮明に焼き付く。覚悟はできていた。恐ろしいほど冷静にあるいは残酷に、現実を受け入れられた。

ミシェル・ザウナーの屈託ない言葉に触れて。

他人事ではないなと感じました。彼女が幼少期から痛いほど味わった、出自ゆえの苦しみや無気力感に寄り添うことは同じアジアントライブとて決してできません。しかし彼女が綴る色鮮やかな食卓あるいは馴染み深い音楽との結び付きの強さに不思議なシンパシーを感じてしまう。実母の死をきっかけに、彼女の人生が大きく動き始めたことも。

亡くなってすぐ、祖父が夢に出てきたんだと突然家族が言い出したんです。コロナ禍の最中、桜を囲んで一緒にお花見する夢を見たと。地上での営みを終えてもなお湿っぽい空気を嫌い、家族に寄り添ってくれたこと。たまには夢で会おうね、不思議と街でおじいちゃんのそっくりさんを見かけることも増えてます。つい振り向いてしまうし、また会えるのかもと信じています。

2023年2月27日 愛する人の命日に

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