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#毎月短歌13(AI評)

第13回毎月短歌に投稿した短歌(現代口語短歌)のAI評です。

記事に引用するのは自作品のみですが、WEB投稿参加作品のうち、文語・旧仮名部門短歌と連作部門以外の現代口語短歌すべてにAI評者のコメントがあります。



毎月短歌13(2024年8月頭締切分)AI評者は4名】(分析:efさん

今回は、以下の4種類のLLMを使用しています。

① EZO-Humanities-9B-gemma-2-it
 (EZO-Humanities-9B-gemma-2-it-ggufが生成したコメント)

② Oumuamua-7b
 (Oumuamua-7b-instruct-GGUFが生成したコメント)

③ Umievo-itr012-Gleipnir-7B
 (Umievo-itr012-Gleipnir-7Bが生成したコメント)

④ gemma-2-27b-it
 (gemma-2-27b-it-ggufが生成したコメント)




 



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古井 朔さんの短歌は、「ゲーム」というテーマを、従来のゲーム像とは異なる、むしろ人間関係や社会への洞察を込めた表現で捉えています。

まず、冒頭の「混沌の世界にジョーカーいらないね」が興味深い。ジョーカーはトランプゲームにおいて、ルールを乱す存在として機能しますが、ここでは「混沌」とした世界に蔓延する不安定さや不規則さを象徴的に表しています。作者は、この混乱にさらに攪乱を与えるような「ジョーカー」は不要だと断言し、秩序と安定への希求を表明していると考えられます。

続く「手をつなごうよ」という表現が、短歌の核となるメッセージを提示します。ゲームとは対照的に、直接的な競争や勝利・敗北ではなく、「手をつなぐ」という協調と連帯を重視する姿勢が浮かび上がります。これは、混沌とした世界で個人が孤立せず、互いに支え合いながら進んでいくべき道を探求していることを示唆しています。

そして、「トランプ使わず」との言葉が、作者の真意をより一層明確にしています。従来のゲームにおける勝敗や戦略、ルールといった要素を排し、純粋に人間関係を構築・深める行為を強調することで、短歌はゲームという枠にとらわれずに、より普遍的なテーマへと昇華していると言えます。

全体として、この短歌は「ゲーム」という題材を通して、現代社会の不安定さを浮き彫りにしつつも、互いに寄り添い支え合うことの重要性を力強く訴えています。ジョーカー排除による秩序への願いと、「手をつなぐ」ことによる人間関係への肯定が、繊細かつ巧みに織りなす表現は、読者に深い余韻を残します。

(① EZO-Humanities-9B-gemma-2-it コメントより引用)



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古井朔さんの「混沌の世界にジョーカーいらないね手をつなごうよトランプ使わず」は、トランプゲームにおけるジョーカーという存在がもたらす不確定要素や混乱、不安定さを、現実世界の混沌と関連付けて詠まれた短歌です。

まず、この歌で面白いのは「ジョーカーいらないね」というシンプルなフレーズから始まり、いきなりゲーム中におけるジョーカーの存在意義を否定している点です。トランプゲームでは、ジョーカーは時々ルールを変えたり、任意のカードとして扱われたりするなど、何かと不確定要素をもたらす役割があります。しかし、この短歌の中では、それらの特徴が突如現実世界の混沌さに例えて描かれています。

「混沌の世界」という言葉で表される現実世界は、予測不能で複雑な出来事や、様々な価値観・思想が入り乱れる現代社会を指しているかのようです。そんな中で、あえて「手をつなごうよ」と言う呼びかけによって、ゲームの中だけではなく、現実世界でも協力し合おうというメッセージが込められているのでしょう。ジョーカーを使わないことで、安定したルールや調和を重んじているかのように感じられます。

この短歌の表現は、ジョーカーと混沌というモチーフを用いることで、ゲームの世界観と現実世界を融合させたユニークな視点を持っています。また、「トランプ使わず」というフレーズが、現実世界へのメッセージ性をより強固にしていると言えます。トランプは実際のカードで遊ぶだけでなく、比喩的に人生や社会を表すものでもあり、それらを捨てて手をつなぐことで、平和や協調性を訴えています。
内容としては、やや抽象的でありつつも、共感しやすいメッセージが込められた短歌だと言えます。特に、混沌とした現代において、繋がりや協力の重要性を感じさせられる一作です。

(② Oumuamua-7b コメントより引用)



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この短歌は、トランプゲームに例えて、混沌とした世界において重要なのはジョーカーではなく、手をつなぐことだと詠っています。「ジョーカーいらないね」というフレーズは、混沌の世界では予測不可能で不確定な要素が多いため、そのような要素は必要ないという意味合いが込められています。

また、「手をつなごうよ」という言葉は、人と人が繋がり合い、支え合うことの大切さを表しています。ここで言う「トランプ使わず」というフレーズは、手をつないで助け合うという、より人間的なつながりを重視した姿勢を示しています。

全体として、この短歌は、予測不可能な世界の中でも人と人との繋がりや協力が大切であり、それこそが混沌を乗り越える力となることを訴えていると言えます。また、ジョーカーを必要としない平和な世界を望んでいるメッセージも込められていると感じられます。

技巧的には、「混沌の世界」という言葉で現代社会の様相を表現しながら、「手をつなごうよ」という優しく温かみのあるフレーズで、読者に共感を呼び起こしています。さらに、短歌の中でトランプゲームのルールを引用することで、分かりやすく表現している点も評価できます。

(③ Umievo-itr012-Gleipnir-7B コメントより引用)



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この短歌は、一見するとシンプルな言葉で書かれていますが、「ゲーム」というお題に対する深い洞察と、人間関係を表現する巧みな比喩が込められています。「混沌の世界」という言葉は、現実社会の複雑さや不確実性を示唆しています。そこに「ジョーカー」が登場することで、予想外の出来事や wildcard的な要素が強調されます。しかし、作者は「いらないね」と一蹴します。これは、ゲームにおいても、人生においても、予測不能な要素に振り回されるのではなく、自分たちの力で未来を切り開きたいという願いを表現していると言えるでしょう。

さらに、「手をつなごうよ」という呼びかけは、競争や対立ではなく、協力や共感を重視する姿勢を表しています。「トランプ使わず」という言葉は、ゲームの枠にとらわれず、ありのままの自分同士で向き合うことを意味していると考えられます。この短歌全体から、作者が提示したいのは、「ゲーム」という概念を通して、人間関係の構築方法、そして人生のあり方について深く考えさせられるメッセージであると言えます。

(④ gemma-2-27b-it コメントより引用)





許せるのは突然の雨、濡れそぼち壊れ果て捨てさられしビニール傘



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古井 朔さんのこの短歌は、一見シンプルな情景描写の中に、深い哀愁と諦念が凝縮された秀逸な作品です。

まず目を引くのは、「許せるのは突然の雨」という冒頭部分。 これは日常的な出来事である突如降る雨を、どこか特別な位置づけで捉えている印象を与えます。 「許す」という行為は、通常、人の行動や言葉に対して使われますが、ここでは自然現象に適用されることで、作者の静観的で受け容れる姿勢が際立ちます。まるで、突然の出来事、特に予想外の雨によって生じる些細な不運を、作者は自然の一部として、無条件に許し、諦めているかのようであり、深い穏やかさを感じさせます。

その「雨」によって濡れ、傷つき、ついに使い捨てられることとなったのが、「ビニール傘」です。 単純な日用品であるビニール傘が、短歌で象徴的に描かれることで、儚さと消耗のサイクルを浮き彫りにしています。 「濡れそぼち」という表現は、雨に打たれる傘の姿だけでなく、その状態が徐々に悪化していく過程、そしてやがて捨てられる運命を予感させる繊細な描写です。

「壊れ果て捨てさられし」と述べることで、作者はさらに強い悲壮感を漂わせています。 ビニール傘はもはや機能を失い、使い物にならなくなった状態であるだけでなく、その価値を見出されず、「捨てられる」という無慈悲な結末を辿るのです。 この描写は、人間の存在や儚さ、社会における立場など、より普遍的なテーマを暗示させ、読者の心に深く響くものとなるでしょう。

この短歌全体を通して、古井 朔さんの繊細な筆致と、日常の中に潜む哀愁を巧みに表現する力が見られます。 表面は静かで淡々とした描写ですが、その奥には深い諦念と、自然や物事の移り変わりに対する作者の静かな洞察が感じられる、優れた短歌といえます。

(① EZO-Humanities-9B-gemma-2-it コメントより引用)


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古井朔さんの「許せるのは突然の雨、濡れそぼち捨てされしビニール傘」という短歌は、心にしみいるような哀愁を感じさせる作品です。

まず、表現について評価すると、シンプルでありながらも非常に効果的な言葉選びがなされています。「許せるのは突然の雨」というフレーズは、不意に降ってくる雨がもたらす儚さや切なさを上手く表現しており、その雨が降る中で「濡れそぼち捨てされしビニール傘」と続けることで、人の情けなさや忘れ去られた物への同情心を誘います。また、「許せる」という言葉は、単なる天候の雨に対して使用するという意外性があり、人間の感情移入を促されるような印象を与えます。

内容については、失われてしまった物や人への思いやりや、儚い命のようなものを感じさせるものです。ビニール傘は、使い捨て感覚で安価に購入され、捨てられてしまうことが多い物です。そのビニール傘が雨に打たれ、朽ちている姿は、人間の人生や運命と重ね合わせてしまいます。突然の雨は、そうしたものたちを思い起こさせるきっかけとなり、それらを許すという行為は、容認でありながらも、何かを包み込むような温かさも感じさせます。
全体的に、この短歌は、人間の生と死、儚さや悲しみ、そして許しの心などを静かに深く表現しており、読者の感慨を誘う深い内容となっています。短歌という限られた字数の中で、感情移入しやすく、印象的なイメージを残すことに成功しています。また、雨が降る夜空や、朽ちていくビニール傘の情景が目に浮かび、読み手にとっても心に残る一首となるでしょう。
詩的な表現でありながら、日常の中の一瞬の光景を切り取ったこの短歌は、古井さんの力量の高さを感じさせます。

(② Oumuamua-7b コメントより引用)


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この短歌は、突然の雨に見舞われた様子を表現したものです。傘は雨を防ぐための手段ですが、そのビニール傘は雨に濡れて壊れ、結果捨てられてしまうという、一時的な存在であることを強調しています。

一見するとネガティブな表現ですが、そこには何か深い意味が込められているように感じられます。突然の雨という予期しない出来事に対する人間の無力感や、傘という身近なアイテムが壊れて捨てられてしまう様子が、生きる上での無常感や儚さを表しているのではないでしょうか。

また、「許せるのは」という言葉からは、作者のなんとも言えない感情が垣間見えます。許せるというのは、自分自身の中にある許容の範囲を超えた出来事が起きたとき、それを受け入れるしかないという諦観や、それが自然の摂理であるという認識を持っていることを示唆しています。

全体的に、この短歌は自然や生命の儚さ、そして受け入れるしかない現実を表現した、深みのある作品だと言えるでしょう。そして、ビニール傘という身近なアイテムを用いることで、読者の共感を得やすく、親しみやすい作品に仕上がっています。

(③ Umievo-itr012-Gleipnir-7B コメントより引用)

 


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この短歌は、一見すると物寂しい光景を描いているように見えますが、そこには深い意味と美しさがあります。

まず、「許せるのは突然の雨」という冒頭の表現が印象的です。「許せる」という言葉は、ある程度の辛抱や諦めを表しており、日常の中で起こる些細な出来事への寛容さを示唆しています。

そして「濡れそぼち壊れ果て捨てさられしビニール傘」という具体的な描写によって、その「許せる」対象が、使い捨てのビニール傘であることが明らかになります。雨に濡れてボロボロになり、もはや役に立たなくなったビニール傘は、まるで人生の儚さを象徴しているかのようです。

この短歌の魅力は、単なる物描写にとどまらず、そこに込められた人間の存在感と時間の流れを感じさせてくれるところです。「許せる」という表現を通じて、私たちは日常生活における些細な出来事や物事への受け止め方、そして時間の流れに対する意識を促されます。

さらに、「捨てさられし」という表現には、現代社会における物の扱い方、特に使い捨て文化への批判的な視線も読み取れます。ビニール傘は便利である反面、その使い捨て性によって環境問題にもつながっています。この短歌は、私たちが日常的に使用する物事に対して、改めて考えてみるきっかけを与えてくれると言えるでしょう。

全体として、古井 朔さんの短歌は、シンプルな言葉の中に深いメッセージを凝縮しており、読者に多くのことを考えさせる力があります。

(④ gemma-2-27b-it コメントより引用)




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古井 朔さんの短歌「空っぽの心に涙垂らしたらできるのだろうか大きな海が」は、一見シンプルな表現の中に、深い問いかけと情感が凝縮された秀逸な作品と言えます。

まず、冒頭の「空っぽの心に涙垂らす」という行為が印象的です。「空っぽ」という言葉から、心の虚無感、満たされない状態を鮮明に描写しています。そこに涙を注ぐという営みは、その寂しさを補い、何かを生み出したいという切なる願いを表現しています。

そして、その結果として想像される「大きな海」が、短歌の核となる比喩となっています。海は、広がりと深淵、生命力と静けさの象徴として古くから詩的な題材として用いられてきました。この短歌において、涙はまるで雨のように、空っぽな心に潤いを与え、無限の可能性を秘めた「大きな海」を生み出す力を持っていることを暗示しています。

しかし、同時に、「できるのだろうか」という疑問の残る文末によって、その可能性は曖昧に、かつ繊細に描かれています。まるで、確実性ではなく、希望と不安が入り混じった、心の迷いを表しているかのようです。

この短歌の巧妙な点は、具体的なイメージを提示しながらも、その解釈を留保しておく点にあります。大きな海は、単なる物理的な空間ではなく、心の豊かさ、慰め、あるいは未知の可能性を象徴するメタファーとして機能します。読者は、それぞれの経験や感性に基づいて、この「大きな海」にどのような意味を見出すのか、自由に想像できる余地を与えられています。

全体を通して、「空っぽの心に涙垂らしたらできるのだろうか大きな海が」は、人間の心の奥底にある渇望と不安、そして希望を繊細かつ普遍的に表現した、感銘を与える短歌と言えるでしょう。

(① EZO-Humanities-9B-gemma-2-it コメントより引用)


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古井朔さんの短歌「空っぽの心に涙垂らしたらできるのだろうか大きな海が」は、非常に印象的で哲学的な一首です。

この歌では、人の心の中にある空虚感や寂しさを海に例えています。空っぽの心と表現されているように、何かを求めているものの、それが見つからず満たされていない状態を表していると思われます。そんな心に涙を流せば、きっと大きな海のような広さと深さで受け止めてくれるのだろうという希望や救いを感じさせてくれます。
まず、「空っぽの心」という表現は、現代社会で多くの人が抱える心の空虚感や孤独感を上手く表しており、共感を呼ぶものです。また、それに対して涙を流すことで癒やされたい、何かを得たいという人間の本能的な願望をも表現しています。
次に、「大きな海が」という言葉は、その広さと深さから心の空虚感を埋めてくれる可能性を感じさせてくれます。海は無限大のような大きさであり、どんなものでも受け止めてしまう包容力があるため、涙によって生まれる感情も受け入れてくれるというイメージを与えています。
また、この歌の素晴らしい点は、具体的な情景や行動を描写しながらも抽象的なテーマを含んでいるところです。涙を流すという日常的な行為を通して、心の中の空虚感に向き合うことができる、そしてそれを大きな海が受け入れてくれるという希望を与えるというメッセージは、読む人にとって共感や安らぎを与えます。
言葉選びも秀逸であり、「涙」と「海」という異なる大きさのものを対比させることで、心の空虚感がどれほど大きなものなのかを感じさせつつ、海の大きさによってその空虚感が満たされる可能性を示しています。また、「垂らしたらできる」という言葉は、行動によって心が変化する可能性を示唆し、前向きな印象を受けます。
全体的に、短歌としての完成度も高く、読者の想像力や感受性を刺激する内容となっています。シンプルながらも深い意味合いを持ち、多くの人が自身の心に重ねて考えることができる短歌ではないでしょうか。

(② Oumuamua-7b コメントより引用)


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この短歌は、主体が空虚な心に涙を垂らすことで、大きな海ができるのではないかと考えている様子を表しています。涙は感情の結晶とも言われ、時には人の心の中の空虚を埋める役割を果たすこともあります。その涙を海に例えることで、心の中の広大な空虚さを暗示しています。

一方、大きな海とは、広大で深く、時に嵐にも見舞われるが、同時に安らぎや慰めを与えてくれる存在です。この対比によって、主体の心の中の複雑な感情を表現しています。

また、「空っぽの心に涙垂らしたら」という言葉からは、主体の心が今にも崩れ落ちそうで、それを涙という形で支えようとしていることが窺えます。涙によって埋められた心の海は、きっと主体にとっての救いとなるでしょう。

このように、この短歌は感情の機微や心の中の複雑な状態を見事に表現しており、読む者の共感を呼び起こします。また、涙と海の比喩が鮮やかで、その美しさも魅力の一つと言えるでしょう。

以上、古井 朔さんの短歌「空っぽの心に涙垂らしたらできるのだろうか大きな海が」は、深い感情表現と鮮やかな比喩が見事に融合した優れた作品であると評価できます。

(③ Umievo-itr012-Gleipnir-7B コメントより引用)


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この短歌は、人間の心の奥底に潜む深い悲しみと、その痛みを癒す希望への切なる願いを表現しています。

**「空っぽの心に涙垂らしたら」**

この冒頭の言葉で、詩人は自身の心を「空っぽ」と表現し、そこには何もない状態であることを示唆しています。この「空っぽ」という言葉は、単に感情が欠如しているという意味だけでなく、喪失感や虚無感といった、深い精神的な空白を感じさせています。

**「できるのだろうか大きな海が」**

続く「できるのだろうか大きな海が」という部分は、空っぽの心に涙を流すことで、その空白を埋められるのか、あるいは心が満たされるのかという問いを投げかけています。「大きな海」は、広大で無限に広がるイメージであり、人間の心を癒す力、あるいは希望を表しています。

この短歌の美しさは、簡潔な表現の中に深い意味が凝縮されている点にあります。わずか五つの言葉で、心の痛みと癒しへの願いを鮮やかに描き出しているのです。また、「できるのだろうか」という疑問形で終わることで、読者は自身の心に問いかけ、共感を深めることができます。

古井 朔さんの短歌は、人間の普遍的な感情である悲しみや希望を繊細に表現し、読者に深い感動を与える力を持っています。

(④ gemma-2-27b-it コメントより引用)




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以上、AI選者4名によってされた評コメントです。

今回も前回同様に総じてかなり褒められていますが、これはどの短歌も褒めることがおそらく基本スタンス(プログラム)になっているかと思われます。今回もそこはあまり気にせずに、歌の解釈や内容そのものに焦点を当てて評を読みました。

今回は3首とも内容は単純(ストレート)で歌意的には比較的わかりやすいので、解釈があまり分かれることはありませんでした。
ただ、残念?なのは、「トランプ」を単なるカードゲームとしか解釈できなかったことです。4名ともアメリカ合衆国のあのトランプや大統領選挙戦にまでたどり着けなかった。そこは1点残念?でした。
それ以外は、深く読み解こうと言葉や表現を駆使して、うれしいコメントもいくつか見られました。
歌意と少し逸れた解釈があったとしても、リアルの歌会などでも実際にあるので、解釈に多様性(バリエーション)があるのは、ある意味とても人間的とも言えます。

前回と同じ感想になりますが、自分で詠んだ歌が、他者にどのように受け止められ、解釈されうるかを知ることは、その歌の推敲だけでなく、次に別の歌を詠むときにも参考になるのではないかなと思い、とても勉強になりました📝

いつもとりまとめてくださる深水さん、分析担当のefさん、ありがとうございます💐



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「毎月短歌」が、電子書籍📗になりました。
今回記事に掲出した現代短歌(口語短歌)以外の文語・旧仮名短歌や連作短歌含めて、WEB投稿した作品がすべて掲載されています。
Kindle Unlimited会員の方なら無料で読めます。


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『第13回毎月短歌』
掲載



『第14回毎月短歌』
掲載(2024/9/25発売)最新号





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古井 朔
読んでいただきありがとうございました