📖【小説】 『クルイロ～翼～』 ⑨ （2007年刊行の絶版本をnote限定公開！！）

※この小説は、サッカーが好きな人でなくてもお楽しみいただける、内面描写重視の作品です。どちらかというとスポ根系の話を好む人より、クリエイター系の人たちや、機能不全家庭育ちの人たちに響く内容だと思われます。

【内容紹介】

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小説『クルイロ～翼～』前半（全文無料公開です）｜悠冴紀／小説家・詩人｜note

◆ 第三章 「双頭の鷲」 後半（P.103～）

　プロの世界でデビューを果たすなり、ボリスは国中のサッカーファンを釘付けにした。幼い頃からの教育で、基本に忠実なプレーをする選手が多い中、型破りな彼は、持ち前の創造力を活かして独特のサッカーを展開した。その強烈な個性の放出を目の当たりにして、人々は一瞬ハッと目を見張り、次に唖然となり、気付いたときにはすっかり彼のプレーの虜とりこになっていた。試合が終わっても余韻から抜け出すことができずに、長い間その場に立ち尽くして。
　はじめのうち、ボリスはフォワードとして起用されていて、その切れ味の鋭さと得点力の高さに注目が集まりがちだったのだが、ポジションを変えながらゲームメーカーとしての才能をも発揮し始めると、フィールド上がたちまち彼のカラーで染め尽くされた。その時どきの空間全体をキャンバスとして、彼がボールで描く放物線には、どこか芸術的な美しさがあり、観衆は皆、「こんなサッカーもあったのか……」と感嘆のため息をついたものだ。
　ただ、出だしの段階では、集団や組織に馴染むのに人一倍時間がかかる性格的な問題に加えて、彼の奇抜な発想にチームメイトたちがついていけないという問題から、立ち上がり上々とは言えなかった。そんなボリスの起用には、監督も頭を痛めていて、最初は彼をスーパーサブとしてスタートさせることで、少しずつチームのペースに馴染ませようと慎重に扱った。にも拘わらず、ボリスがピッチに現れた瞬間から流れが一変し、皆大いに戸惑った。そして結局は、ほかの選手たちが片っ端から彼のペースに引き込まれて、抗いようもなく押し流されていくこととなった。
　自分の指示を度々無視される監督と、実績のあるベテランメンバーからは、当然煙たがられる滑り出しとなったが、結果的には、そうしたボリス主導のゲームこそが人々に愛され、チームにかつてない繁栄をもたらした。ボリスがフル出場し始めてから、チームは大勝を重ねて、ぐんぐんと順位を上げていった。彼をサブ扱いしていたシーズン前半の失点や、彼が負傷により欠場した数試合での大敗のため、惜しくも優勝には届かなかったものの、昨シーズンまで良くて四位止まりだったチームが、国内リーグ準優勝を果たして、欧州チャンピオンズリーグの出場権を手にした。
　デビュー初年度から結果を出し、圧倒的存在感を発揮したボリスは、一躍時の人となり注目の的になった。ついしばらく前までサッカーに面白みを感じていなかったような人たちまで、一目で熱狂的なサッカーファンにしてしまう、嵐のような求心力で。

　フィールド上にいる間、ボリスは常に開放的でアグレッシブで堂々としていた。そこには、人前でスピーチをさせられるときのような、あがり症で内向的なボリスの姿はなく、（おそらく心因性と思われる）呼吸困難などの持病とも無縁でいられた。プレーに集中している限り、自分の呼吸音や常識の欠如や家族に関することなど、それまで気になっていた余計な雑念の数々が、一切意識の外に押しやられ、別人のように自信に満ちていられるのだ。
　だが試合が終わって、一歩フィールドから離れてしまうと、彼はたちまち、社交が苦手で生きるのが下手な元のボリスに逆戻りしてしまい、人から期待されたり注目されたりすることをストレスとしか思えなくなるため、ファンやマスコミの視線から全力で逃げ隠れして暮らしていた。会見の場に姿を現さないこともしばしばで、話題沸騰中の人物にしては、本人のコメントやアピールが極端に少ない選手となり、「サービス精神がない」、「秘密主義」、「無愛想」と非難されがちだった。
　事実ボリスは、自分は本質的に世の疎うとまれ者で、知れば知るほど嫌われると思い続ける難儀な劣等意識のために、根掘り葉掘りと個人的なことに踏み入られるのを嫌い、なるべく自分を語らないようにしていた。その生い立ちから、自分について把握されないことで身を護る癖がついていた、という側面もあるが、それ以上に、この世で唯一心を許せる相手として選んだ人物への一途さが、強く影響しているようだった。状況がどう変化して、どれほど大勢に賛辞を送られる身になっても、彼はずっと『自分の長所短所すべてを知った上で無条件に受け入れてくれるのは、リョー（＝アレクセイ）だけ』と信じていたため、ほかの人たちに対しては、アレクセイに対するほど開けっ広げになる必要性を感じていなかったらしい。
　彼はまた、サイドのウィング ── 実際にはサイドハーフのポジションだったが、彼は『ウィング』と呼んでいた ── を担うパートナーとしても、アレクセイに対する信頼を固く保ち続けていた。ユースに通っていた頃より更に、本格的にサッカー教育を受けてきた人たちや、実践経験豊富な人たちが溢れ返っているプロの世界で、色々なタイプの人たちと組んでみたにも拘わらず、彼はこう言い放った。
「俺にとって一番のウィングは、やっぱりお前だ。ほかの誰と組んでも、お前とやっていたときほどには、息が合わないからな」
　彼の言う『息が合う』という状態は、通常では考えられないレベルの一種のシンクロを意味していた。プレーにおける彼の意図を、まるで自分自身の考えの一部であるかのように、常に正確に読み取り、彼と自然にイメージを共有することができて、初めてそれと認められるものだ。
　以前はボリス自身、そこまでのことは現実的に考えてあり得ないと思い、誰にも期待していなかったのだが、アレクセイと出会って絶妙のコンビネーション・プレーを経験してから、ほかとは異なる特別な何かを感じるようになったのだと言う。彼の言葉を借りて表現するなら、心を一つにしながら二つの頭を持ち、同じ翼で共に大空を舞うことのできる “ 双頭の鷲わし ” だ、と。
　確かに二人の間には、長い間壁も距離もなく、不思議な一体感があった。それぞれの見聞きしたことや感じたことを包み隠さず分かち合って共有し、本音をぶつけ合いながら互いを高めていける、かけがえのないパートナーだ。
　だが一方でこの頃から、アレクセイの中では、こんな不安も募り始めていた。
　監禁の檻を突き破って、ついに外に飛び出したボリスは、これからより一層広い空へと羽ばたいていくだろう。本人にそこまでの野心がなくても、周りが彼を放っておかないはずだから。そんな器の大きい人物が、果たして自分のような凡庸ぼんような人間を、いつまでも必要としているだろうか……？
　ひどい環境下で迷い迷い不安定に翔んでいた子供の頃とは違い、今の彼はもう、自分が支え木になどならなくても、一人で大空を舞い続けていける逞たくましい鷲だ。今よりも更に多くの出会いを重ね、世界を知るにつれ、自ずと心離れしていくはず。
　つまり、自分は彼にとって、もはや必要欠くべからざる存在ではなくなってしまった。
　── アレクセイにはそんな気がしてならなかった。

　その手の疑念がどれほど残酷な裏切り行為であり、どれほど彼を孤独にするか、考えもせずに。

＊　　　＊

　プロデビューから二年目に当たる十八歳のとき、ボリスは国内リーグでチームを優勝に導いた。欧州チャンピオンズリーグでは、チーム自体が経験不足で不慣れであったため、多くの課題が残されることとなったが、ここ数年低迷状態にあったロシアのサッカー界に、威信を回復させるには充分な活躍を果たし、ボリス個人のレベルの高さは誰もが認めるところとなった。結果として、彼はロシア最優秀選手賞に選ばれ、翌年のワールドカップの代表メンバーにも名前が挙げられた。
　選手としてのボリスは、どのポジションに置かれても変わらず器用にボールを操り、どんな局面においても常にゲームの主役となる存在だった。気分の善し悪しに左右されて、調子の良い日とそうでない日のムラが人一倍強く出ることが、唯一の大きな弱点と言えたが、そこを減点したとしても、ボリスを超える魅力の持ち主はほかになく、彼は日々崇拝者を増やして誌面で絶賛されていた。あるスポーツ誌のライターは、「ボリス・スクラートフのサッカー以外はサッカーと呼べない」とまで記していた。
　あまりの人気沸騰により、とうとう逃げ切れなくなってきたボリスは、しばしばファンやマスコミに捕まってはカメラを向けられ、不器用な引きつり笑いで応じていた。その姿をテレビで見かけるたび、アレクセイは、「ボリスってば、また不自然な苦笑を浮かべて固まってるよ」と笑いながら見守ったものだ。
　だが同時にそれは、連日引っ張りダコの彼と、顔を合わせる機会すらなくなっている現状をふと自覚して、焦りを覚える瞬間でもあった。片や国民的スターで、一路あるべき道へ突き進んでいくボリスと、惰性で漠然と日々を送るばかりの名もなき自分……。テレビ画面の向こう側の彼が、急に遠い存在に感じられ、抗しがたい不安に襲われた。

　川から氷の割れる轟音ごうおんが響き渡り、道端や森に春の草花が咲き誇る季節が来た。以前なら、こうした季節の移り変わりをボリスと一緒に眺め、彼の感性豊かなファインダーを通すことで、実際以上の歓喜に浸ることができた。
　だが今、彼の姿は隣にない。皮肉にも、共に育んだ彼の才能と、それを求める周囲の世界が、日に日に彼を自分から遠ざけようとしている。
　このままでは、自分はただ１人取り残されて、２人で過ごした過去にしがみつくだけの存在になってしまう。ボリスには及ばずとも、自分も何かこれという道を見つけて、人生を燃焼しなくては。そう思った。
　しかし、その自分にとっての何か・・とは、一体どこを探せば見つかるのだろう？
　そこでアレクセイは、軽く自分のこれまでの歩みを振り返ってみた。

　元々捨て子だったアレクセイは、運良く親切な夫妻に拾われ、家族の一員として迎え入れられたものの、どんなに愛情深く受け入れられても、はじめのうちはやはり、気持ちの上で距離があった。国家情勢や経済的な理由がどうこうという事情をまだ理解できない子供だった彼は、実の親に捨てられたことを、自分が愛されるに値しない存在だからだと感じていた。だから、新しい両親にも、いつまた愛想を尽かされ捨てられるとも知れない、と不安を抱き、心を開くことができなかった。実の両親でさえダメだったのだから、血の繋がりがなければ尚更だ、と。
　アレクセイが今でも鮮明に覚えている幼少期の記憶がある。両親が忽然こつぜんと姿を消した直後の記憶だ。年端もいかない子供の身で、たった独り取り残されたアレクセイは、誰もいなくなった農地の片隅にある家で、迫り来る灰色の冬の兆しを肌で感じながら、無力に震えていた。あの恐怖は、きっと一生忘れられない。
　この国の冬はひどいときで零下50度の世界だ。もちろん、国土が広い分、地域差はかなりある。農業が盛んな地域などは、比較的に温暖な場所が多い。それでも、せいぜいマイナス10度前後で済むモスクワに比べると、かなり厳しい冬だった。屋内とは言え、すきま風の吹くあんなあばら家であのまま放置されていたら、やがて食糧も尽きて凍え死んでいただろう。そうなることを承知の上で、両親はアレクセイを置き去りにしたのだ。
　つまり、死んでも構わない、と……。
　非情極まりない冬の匂い。老朽化により今にも裂けてしまいそうな不安定な床板の軋きしみ。照明も使えなくなった永遠のような暗闇。何日かは毛布にくるまって縮こまっていたが、空腹と渇きでついには外に出て、ありもしない根菜を掘り起こそうと地面を這いつくばっていたとき、近所の住人だった今の両親が、事態に気付いてようやく保護してくれたのだった。

　─── あんな目にあうのだけは、二度とごめんだ。

　今振り返ると、内側に貼り付いたそんな恐怖心が、その後もずっとアレクセイを支配し続け、行動を左右していたように思われる。
　見放されてあ・の・地・獄・に逆戻りしないためには、そのままの自分ではダメなんだ。どうしても通常の家庭の子供以上の、格別の努力をしなければならない。そう感じていた。
　だから我が儘を言ったり、余計な問題を起こしたりして世話をかけないよう、極力行儀の良い態度、邪魔にならない言動を心掛け、真面目に勉強もして、愛される息子役を演じようとしていた。常に相手の表情や声調から意図を汲み取り、望み通りの存在になろうとしていた。所詮自分は本物の家族ではない偽物、、であり、愛されざる子供だから。
　だがあるとき、そんなアレクセイに、見かねた養父がこう声をかけてくれた。
「お前は本当に親思いの自慢の息子だ。だけど、そんなに肩に力を入れなくていいんだよ。嫌でも皆いつかは大人になって、いろんな制限の中で暮らさなければならないときがくるのだから、今しかできない遊び事や、子供だからこそ許されるようなバカなことも、色々やってみるといい。本当の知性や成熟した感性というのは、案外そういうことの中から生み出されるものだよ」
　アレクセイはどう答えていいかわからずに、屈み込んで目線を同じくする養父と間近に向かい合って、ただただ話に聞き入っていた。
「この国は、まだまだ治世が混乱していて不便なことが多いが、かつてに比べれば『自由』と呼べるものが確かにある。ほんの何年か前までなら、枠組みから外れたことをして道端で騒いでいるだけで逮捕されるところだが、今はそれができるんだ。そんなせっかくの『自由』を、使わない手はない。そうだろう？」
　その言葉にホッと力が抜けたアレクセイの瞳から、自然に涙が溢れ出した。そしてそのまま、滝のように流れて止まらなくなってしまった。
　引き取られた当初はともかくとして、この頃には、もうすっかり新しい生活や新しい両親にも慣れて、気を抜いて暮らしているつもりだった。この人たちなら自分を見捨てたりしない。自分は今はちゃんと愛されていて、本当の息子のように受け入れられている。そんな信頼と安心感のもと、のんびりと過ごせているものだと……。
　それなのに、実は限界すれすれまで自分を鞭むち打うって、知らず知らず無理をしていたことに、このとき初めて気が付いたのだ。なんと、自分は未だに『頑張っていた』のか、と。
　この時期、時代の転換期に犠牲となった多くの捨て子たちが、マンホール・チルドレンと化して犯罪に手を染めたり、飢え死にしてしまったりして、社会問題になっていた。たとえ里親ができたとしても、引き取られた先で虐待されるケースが大半で、酷い人生を余儀なくされるのが現実だった。そんな中、こんな愛情深い養父母に恵まれた自分はなんて恵まれているのだろう、と深く感謝する一方で、そんな相手だからこそますます嫌われたくない、この生活を失いたくないと、無意識下で持病とも言える恐怖心が発動してしまっていたらしい。
　しかしそれをも見抜いた上で、全く不要な取り越し苦労であると、ほかならぬ養父……いや、今の親が諭してくれた。

　── とは言え、急にやりたいことをして自分の意思で『自由』を満喫しろと言われても、それはそれで困ってしまった。今更何をどうしていいやら、見当もつかない。
　ちょうどそんな折、モスクワへと越してきて、ボリスに出会った。
　彼は溢れんばかりの主体性と渇望で自らを突き動かし、自由という無色透明の時間を独自のカラーで染め尽くす達人だった。家の中は極めて不自由な環境だったが、だからこそ、家の外で得られる束の間の自由のありがたみを、誰よりもよくわかっていて、それを余すところなく有効活用しようとしていた。
　人からの評価が気になって、なかなか思い切った振る舞いをできないアレクセイや、父親の過大な期待でがんじがらめになっている彼の二人の兄たちとは、色んな意味で対照的だった。彼の場合は、底辺の評価で見下されて育ち、何の期待もされていないその身の上自体を、心根の自由に繋げている節があったのだ。
　もちろん、最初からそんなだったわけではないだろう。暴力任せの洗脳教育で、自分の内側に棲み着いてしまった父親の意識に囚われて、葛藤していた時期も確かにあった。だが、ギリギリの緊張感で何年も首位を維持してきたマラソンで、ついにトップの座を降りて以来、彼はとうとう完全に見放された存在になったので、失望されることへの恐れが一切なくなった。彼の成長過程を間近に見てきたアレクセイは、これまでに聞いた本人の発言の数々も踏まえて、そう解釈している。
「期待がなければ失望もなく、これ以上落ちようがないので、もう誰の顔色も気にしなくて良い。好きにしていいんだ」という自由への転換。地に落ちた評価さえも強みに変えてしまう、そんなふてぶてしいほどに柔軟な発想が、まさにボリスその人の成長の秘訣だった。
　アレクセイの目には、なんて潔くてしなやかな強さだろうと、彼の在り方が眩しく映り、すぐ隣にいながら憧れの視線を注ぐまでになっていた。彼といると日々エキサイティングで、かつて味わったことのない充実感を得ることができた。人生の楽しみ方や、自由というものの有効な使い方とは何であるかを、覚ったような気がしていた。

　それが今では、彼を欠いた途端に、一人では何をどう楽しんでいいかもわからない、主体性の欠落した自分の実態があらわになり、途方に暮れている。自分は結局のところ、彼の創造性に与あずかって共鳴反応に酔いしれていただけだったのだろうか？　なんと情けのない他力本願な実態……。
　それでも、これからはもう彼に寄りかかってばかりはいられない。初等・中等普通学校（６歳から始まる小中高一貫の11年制の公立学校）も卒業して、彼とは別々の道を歩み出したのだから、いい加減に自力で生を刻んでいかなくては。
　そんな思いで頭がいっぱいになっていたとき、アレクセイは彼女・・に出会った。

　大学で同じ学部にユリアという女性がいて、脱け殻のようになっていたアレクセイに、出し抜けにこう語りかけてきた。
「あなた、ゾンビみたいな顔をしてるわね」と。
　面と向かってそんな不躾ぶしつけなことを言われたのは初めてで、アレクセイは出会い頭にストレート・パンチを食らったような気分だった。講義が終わったことにも気付かないまま、肘を立てて頬杖をつき、ぼんやりと座り込んでいたところだったのだが、さすがにムッとして顔を上げた。
「それ、どういう意味だよ」
「あら、やっと私の存在に気付いてくれたんだ」
　腰に手を当て、アレクセイを見下ろしていたのは、ブロンドの髪を後ろでまとめてアップにした、快活そうな女性だった。朝晩はまだ少し肌寒いときがあるが、季節は夏も近い時期なので、動きやすそうな半袖姿だ。
「……僕たち、これまでに出会ったことがあった？」
「しょっちゅう同じ授業で顔を合わせているけど、私が言いたいのはそういうことじゃない。あなたが私の上着を踏んづけて座っているせいで、帰れなくて困っているの。早く立ち上がってくれないかと思って、さっきから正面に立って睨み付けていたのに、全然気付かないし。まったく、変な人ね」
　視線を下げると、確かにアレクセイは、人様の上着を下敷きにして座っていた。
「これはどうも失礼。でも、そんなトゲのある言い方をしなくたって、普通にどいてくれって声をかければいいじゃないか。さっきから聞いていると、ゾンビだの変人だのって言いたい放題だけど、この上着のこと以外で、僕が何か恨みを買うようなことをした？」
　腰を浮かせて上着を彼女に手渡しながら、アレクセイが言った。
「別に。恨みだなんて、そんな面倒臭い感情を向けるほどあなたを知らない。ただ、自分一人の世界に浸って白昼夢を見ているようなその虚ろな目つきが、なんだか気に障ったのよね。失恋したのかクスリでもやっているのか知らないけど、妙に目につく。それだけ。じゃあね」
　更にボロクソに言い捨てて、その場を立ち去ろうとした彼女に、アレクセイは腹の虫が治まらず突っかかっていった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ！　やっぱりひどい言われようだ。聞き捨てならないね」
「ああ、ごめんなさい。私、口が悪くって。つい思ったままを声に出してしまうんだ」
「ほんとに、よく言うよ。そっちこそ失恋でもしたんじゃないのか？　出会ったばかりの奴にそこまで言うなんて、どうかしてるよ。誰かにふられた腹いせに、男をバカにして八つ当たりしているんだろう」
　アレクセイは自分の手荷物をリュックにまとめて肩にかけると、教室を出ていく彼女を一足遅れに追いながら、ブツブツと文句を言った。普段は基本的に何事も穏便に済ませたい性分で、多少不愉快なことを言われても怒り任せに言い返したりはしないのに、このときだけは何故だか黙っていられなかった。
「さすが、講義の間中、白昼夢を見ているだけあって、想像力豊かね」
「今日はちょっと考え事をしていただけだよ。いつもはちゃんと講義に集中しているさ。こう見えても勉学には真剣に取り組んでいるんだからね」
　すると、冷ややかに背中を向けて前を歩いていた彼女が、ピタリと足を止めて振り返った。
「へえー、そう。だったら聞くけど、なんでこの学部にいるの？」
　人差し指を突き付けてそう問いかけられたとき、アレクセイはようやくハッとして、目の覚めたような気分になった。
　そうだ、僕には僕なりの目標があってここにいたんだ、と。

　アレクセイは、アジア・アフリカ諸国について専門的に学べる大学を進学先に選び、今は日本語学科を専攻している。ロシアではそうした方面に関心を向けるのは、ちょっとした変わり者志向なのだが、漠然とした好奇心だけで選んだわけは、もちろんない。
　外国語の特徴を掴むのが得意で、同じロシア人の輪にはなかなか溶け込めないのに、何故だか留学生とはすぐ親しくなるボリスを介して、アレクセイはこれまで、ドイツ人留学生や日本人留学生と交流する機会に恵まれていた。そこで目を付けたのが、旅行業や観光サービスだった。
　ボリスがよく言っていた。この国に元からある店と外国から進出してきた店では、サービスの面で大きな差があると。留学生たちの多くも、この国に来てからサービスの悪さに驚き、よく愚痴をこぼしていた。商店やら理髪店やらの愛想の悪さも問題だが、一番困るのは、入国した際の各機関の手際の悪さや、観光業のサービス不行き届きなのだとか。代理人なしには、ホテルの予約さえ一苦労である。アレクセイはそこのところを改善して、外国からの訪問者がもっと心地好くこの国を訪れられるようにしたいと考えたのだ。一国主義的な構えを取りがちな政治の名残で、未だにどこか閉塞感のあるこの国を、少しでも開けた社会にしたいという願いを込めて。
　となると、まずは言葉を通わせなくてはならない。ドイツ語はすでにマスターしていたし、ロシアでは第二言語としてドイツ語を習得している人が比較的多い。現時点で特に不足しているのは、アジア方面の言語を話せる人材だ。
　というわけで、アレクセイは今の学部にいる。

「あなたのその目は、真剣に学ぼうっていう目には見えない。目標もなく、とりあえず誰かが何かを教えてくれる場に足を運んでいるだけって感じの目よ。この場に来たという既成事実を作ることで、自分の空虚さをごまかそうとして。……ねえ、私の話、聞こえてる？」
　ユリアの人差し指が、アレクセイの鎖骨の中心あたりを、ぐいと押してきた。
「── うん、ありがとう」
「はあ？」
　アレクセイの口から零れ出た思いがけない言葉に、彼女は首をかしげた。
「あ、いやその、今思い出したんだ。言われてみればすっかり忘れていたよ、自分の目標ってやつを」
　ユリアは呆れた様子で肩をすくめたが、やがて降参しましたとでも言うような顔になって、苦笑した。
「参ったなあ。自分一人の世界で考えてる。わざわざこんなところにまでついて来るし……。あなたって、やっぱり変な人ね」
　彼女について歩きながら話すうちに、アレクセイはいつの間にか、大学の敷地から出てしまっていた。
「ごめん。いつもはこんなじゃないんだ。ここしばらく、なんだか調子が狂ってしまっていて……。と言っても、君には関係ないか。そろそろ退散するよ。これ以上つきまとうと変質者呼ばわりされて、通報されそうだからね」
　受け答えがおかしくなっていることに自分でも気が付いていたアレクセイが、そう言って立ち去ろうとすると、今度は彼女が引き止めた。
「ちょっと待って」
　ユリアはアレクセイの腕を掴んで近くの売店まで引っ張っていった。そこでアイスクリームを２つ買うと、そのうちの１つをアレクセイに手渡した。
「はい、どうぞ。お詫びのしるしよ。私もちょっと口が過ぎたから」
　アレクセイの中で、ふと目の前の光景が過去の一場面にリンクした。暑さに弱い彼は、今ぐらいの季節になると道々アイスクリームを買って食べ歩いていたのだが、それを見たボリスが、よく「お前、いつどこに行くにもアイスクリームを食ってるよな。アイスクリームをガソリン代わりにする、燃費の悪い車みたいだぞ」と呆れたものだった。
　寒い冬のイメージが強いこの国だが、意外にもアイスクリームの美味しさには定評があり、外国人観光客や留学生たちの受けも良かった。もちろん、店によって味はまちまちなのだが、アイスクリーム好きのアレクセイには、ささやかな誇らしさを覚える点だった。
「あれっ、なんで僕がアイスクリーム好きだってわかったの？」
　アレクセイはつい、ボリスと言葉もなく気持ちを通わせ、互いのイメージを共有していたときの感覚に戻って、間の抜けた反応をしてしまった。ユリアがまた、困ったように肩をすくめて、苦笑する。
「知るわけないでしょ、そんなこと。自分が好きだから買っただけ。ついでよ、ついで、、、」
　アイスクリームを片手に再び歩き出した彼女に、アレクセイは何気なく、彼女が自分にしたと同じ質問を投げかけてみた。
「それはそうと、君の方は、どうしてあの学部を選んだんだ？」
　彼女は答えた。
「将来、観光業の仕事をしたいと思っているからよ。できればこの国に留まって、迎え入れる立場で」
　アレクセイは思わず指を鳴らした。
「僕と同じだ！」
　共通の目標を持つことに気付いた２人は、明るい場所を求めて公園のベンチに腰かけると、将来の話で盛り上がった。ユリアは父親の仕事の関係で中国や日本にも行ったことがあり、色んな体験談を聞かせてくれた。そして話せば話すほど、彼女と自分の着眼点が似通っていることが見えてきた。彼女には西側の国々を旅してきた経験もあり、この国のどこが問題で、どういった点を持ち味として残していきたいか、よりはっきりとしたビジョンがあった。
　すっかり意気投合して、２人は日が暮れるまで話し込んでいたのだが、話の途中で腕時計を見るなり、ユリアが急に立ち上がった。
「いけない！　そろそろ帰らなきゃ！」
「ほんとだ。ずいぶん長い時間引き止めてしまったね。自宅はこの近く？　送っていくよ」
「いいえ、一人で大丈夫。こう見えてもボクシングやってるからね」
「ええっ！？」
　思わぬ一言にアレクセイは仰天したが、彼女の快活な雰囲気から程なく納得して、妙に頷うなずける気がしてきた。どちらかというと小柄な部類で、一見して筋肉質な印象もないのだが、この気の強さなら不思議はないと。
「ああ、でも誤解しないで。ボクシングって言っても、習い事としては半年と続かなくて、今はたまにジムに通って、パンチングボールで憂さ晴らししているだけのお遊びレベルだから」
　アレクセイが、今にも殴られるのではないかという様子で仰け反っていたせいか、彼女はそう言葉を加えて笑って見せた。
「じゃあ、またね。私、門限があるから」
「あ、最後に１つだけ、聞いてもいいかな？」
「何？」
　あっさり背を向けて立ち去ろうとしていた彼女に、アレクセイは気になっていたことを確認してみた。
「僕って、見ているだけで人を苛立たせるような顔をしてる？」と。
　ユリアは、出会い初めのときとは違って打ち解けた表情で、かぶりを振った。
「ごめん、まだ気にしていたのね。私があなたに毒づいたのは、かつての自分に似た目付きをしていると感じたからよ。自分のやりたいことを求めている割に、自分の内側を覗くとこれといったものを見出せなくて、自分で自分に失望して脱け殻みたいになっていた頃の、大昔の自分にね。でも大丈夫。今はもう “ ゾンビ ” の顔じゃないよ」
　２人ともまだ20歳手前なのだから、『大昔』という言葉を使うには早すぎるのだが、彼女はそう言って軽くウィンクをしてから、くるりと背を向けた。軽快なフットワークで帰路に就くそんな彼女を、アレクセイはどこかホッとした表情で見送った。

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※この作品は2007年初版第一刷発行の悠冴紀のデビュー作ですが、絶版本のため、現在は一部店舗や販売サイトに残る中古本以外にはお買い求めいただくことができません。このnote上でのみ全文公開する予定ですので、是非マガジンをフォローしていただき、引き続き投稿記事をご覧ください。
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