ポラロイド【掌編小説】
ベッドの上にはまだ男の跡が残っていた。シーツの皺や、汗の湿り気が朝方までここにいた男の存在を示していた。起き上がって下着を身につけ、窓から無遠慮に入ってくる夏の光線を鈍い頭でずっと見ていた。
床には憶えの無いポラロイドカメラが転がっていた。きっと男が忘れていったのだった。手に取ってシャッターを切るとフラッシュが焚かれた。薄暗い部屋が写真一枚分の時間、白くなった。吐き出されたフィルムに、昨夜の名残を留めたままの室内がじわじわと浮かび上がってくる。白いフレームが色彩に染まっていくのをじっと待っている間、私の肌も汗で湿っていった。これは幸運なのかも知れなかった。
ワンピースに袖を通し、鏡の前で髪を梳かす。頭の後ろでひとつに括り、数えるほどしかない化粧道具を前にした。少し考えて眉だけ引いた。時間には余裕があったので日焼け止めは丹念に塗った。バッグを手に玄関に立ったとき、スニーカーにするかサンダルにするかでまた迷った。道のりを考えればスニーカーだったが、サンダルを選んだ。実際的な事よりも気分に任せていたかった。
アパートのドアを開けると、外は暑気であふれかえり、渾々と湧き出すように夏が溶けて流れていた。空は濃密な色をしていたが、爽やかさというより、怒り、とか復讐、という言葉が似合うと感じた。その突飛な発想が気に入ってしまい、一人で笑った。
祖母の家までは歩いて十五分ほどの距離になる。かつて一面の田畑だった土地は、荒れ放題の草地に変わっていた。支配者のセイタカアワダチソウが群れて生えていた。幼い頃、祖母の手伝いをして、足を突っ込んだ水田の感触。ふくらはぎまで生ぬるい泥に浸かると、指の先端が溶けて土に混じってしまったように感じた。輪郭の曖昧な思い出だけは甦ってくるものの、他の記憶はどこへ消えてしまったのだろう。灼けたアスファルトの猛りがサンダルの底を突いて伝わってくる。硬く、熱い。一直線の道。アスファルトの上を陽炎もまた真っ直ぐに伸びている。ゆらめきが重なり合って新しい風景に見える。それともこれは私の目眩なのかも知れない。
義則さんはすでに到着していた。灰色のつなぎに身を包んでいた。その汚れた作業着は彼にとてもよく似合っていた。
「間に合ったな。今から始めるとこさ」
日に焼けた真っ黒な笑顔に私も頬を緩める。何台ものオレンジ色の重機が、古い平屋の日本家屋を取り囲んでいた。前庭はすでに先週根こそぎやってしまったので、赤土が剥き出しになり、キャタピラの跡があちこちに残っている。上品に並んだ濃紺の屋根瓦が、荒んだ風景と奇妙な釣り合いを見せていた。義則さんは連れてきた若い男の人達に手早く指示を出した。灰色の作業着が散っていった。ショベルカーが二台、ブルドーザーが一台。煙を吐き出しながら動き出した。
「今日はとっておきのやつも手配したんさ」
義則さんは声を弾ませて言った。私は首を傾げて彼を見る。髪の毛や無精髭に白いものが交じっているのに気がつく。義則さんは軍手をはめた手を振って、男の人達に合図を送り続けていた。
キャタピラの進行する音。金属の擦り切れ続ける音が、蝉の声に重なっている。重機が祖母の屋敷に近づいていく。義則さんが両手で大きくマルを作る。
「そっちと、そっちから、ショベルで崩してけ」
高々と持ち上げられたショベルカーの爪が振り下ろされる。美しい瓦が割れて屋根に穴が空く。思ったよりも控え目な、小さな傷だった。もっと派手な光景を想像していたので、拍子抜けした。ショベルはそのまま力任せにアームを折り曲げていく。エンジンなのかモーターなのか、分からないが、動力源が一際大きく唸った。木材が引き裂かれ、瓦がばらばらと滑り落ちていった。漆喰の壁が粉々になって、土の上に散らばった。義則さんの腕の振りに呼応するように、二台のショベルは両側から、屋敷を切り崩していった。ベテランの指揮者と楽隊のようだった。
「右のあすこは台所のあたりだな」
義則さんは高校を卒業すると同時に家を出ていったらしい。勘当同然だったと聞いた。私が物心ついた時にはすでに戻ってきていたが、祖母との関係が修復することはなかった。
「馬鹿野郎! そこ一回ブルで瓦礫どけとけって!」
私はバッグの中からポラロイドカメラを取り出した。ファインダーを覗くと、崩れかけの屋敷が見えた。当たり前だった。しかし、もしかしたらレンズの向こうには、立派なままの祖母の家が見えるような気がしたのだ。義則さんが不思議そうな顔でこちらを見て、写真撮んのか? と訊いた。頷くかわりに、義則さんに向けてシャッターを押した。家撮んじゃねえのか? と笑う彼に出てきたフィルムを押しつけて、私は屋敷に向かって歩いていった。
子供の頃、随分と長い時間をこの家で過ごしたはずなのに、うまく光景を思い出すことができなかった。私の記憶の像は、時が経つにつれて、無慈悲に淡く、白くなっていく。
解体の邪魔にならないよう気をつけながら、あちこちに立ってカメラを構え、アングルを探ってみる。太陽がほぼ真上から照りつけている。光線の残像が視界を邪魔している。どうにも決まらなかった。適当にシャッターを切ればそれでいいはずなのに納得できなかった。私は諦めて義則さんの隣に戻った。義則さんは、なんだ撮らねえのか? とまた笑った。
私はただ取り壊されていく祖母の家を見ている。明日にはここは更地になって、数ヶ月後には別の何かが建つのだろう。それが何なのか私は知らないし、関係だってない。義則さんは噴き出す汗をタオルで拭っていた。
「兄貴も馬鹿だよ。バブルだなんだって世間に踊らされてさ。お袋もまさか家まで人手に渡るとは、夢にも思わなかっただろうに」
屋根の向こう側に、ぬっと巨大な柱が立ち上がった。
「おう、来た来た。とっておきが」
義則さんの子供のようにはしゃいだ声。柱は斜めに傾いていて、その先にはワイヤーが垂れ下がっている。よく見ると、それは錆に覆われたクレーン車のアームだった。
「よおし、やってくれ!」
ギアを入れ替える機械音が響いた。崩れかかっている祖母の家の背後から、ゆっくりと黒い球体が昇ってきた。私と義則さんの視線がぶつかった。
「ビル解体用の鉄球さ。こんな田舎じゃ活躍の場が無くて不憫でな。俺の裁量で持ってこさせた」
今にも錆びて折れそうなクレーンとは対照的に、鉄球は傷ひとつついていなかった。私の目がおかしくなっているのか、鉄球にはまったく反射が無く、光を飲み込んでいるように見えた。まるで穴のようだった。遠くにあるのか、近くにあるのか、距離感がうまく掴めなかった。空に真っ黒な天体が浮かんでいる。そのようにも見えた。気がつくと他の重機はすでに退避していていた。
巻き上げられたワイヤーによって、鉄球はクレーンの先まで持ち上げられていた。高々と挙げられていた義則さんの手が振り下ろされた。
重力の糸に引かれて、鉄球は真っ直ぐに落下していく。今日は真夏日で、気温は三十五度を超えている。そのニュースを報じるラジオの電波が八月の空に飛んでいる。蝉の抜け殻は、かつて地中で七年もの間蠢いていた。祖母のくれたお菓子はとても甘かったが、それが何という名前なのか憶えていない。川の流れる音がする。それはきっと幻聴だろう。父は大丈夫だろうか。明日病院に着替えを持っていかなければ。ここが更地になったらもう一度来てみよう。セイタカアワダチソウに支配される前に。男の残していったポラロイドカメラ。私はあの男にまた会うことがあるのだろうか。薄い化粧を突き破って、汗が噴き出している。体中の孔から、私の成分の混じった水溶液がにじみ出ている。その中に記憶も溶けてしまっているのかも知れない。そうやって、私は人生を少しずつ忘却しているのかも知れない。
鉄球は家屋の中心に落ちた。わずかな狂いも無いように見えた。屋根瓦が一時に浮き上がり、板に水を流すように滑って落下していく。渡されていた梁がめりめりと悲鳴を上げて折れていく。硝子戸の硝子は吹き飛び、粉々に砕け、赤土の上にきらきらと降り注いだ。義則さんが再び手を高く挙げると、黒い鉄球が空へと昇っていく。振り下ろすと再び落ちる。私は今度は耳を塞いでいる。義則さんの手が上がる。昇る。落ちる。砕け散る。祖母の家が幾度となく穿たれる。
「お袋も草場の蔭でどう思ってんだかなあ」
義則さんは呟く。耳を塞いでいてもそれは聞こえる。病室にここの音は届いているのだろうか。
日が傾き始めた頃には、解体は終わっていた。家屋は一本の柱も残さずに瓦礫の山へと変わっていた。明日またダンプでさらいに来るという。私はカメラを持って、かつて祖母の家だった塊に登った。サンダルだったので慎重だった。ファインダーを覗くと瓦礫の山が見えた。アングルはすぐに決まった。シャッターを何度も切る度に、白いフィルムが吐き出されていった。
重機達はそのまま残されていた。錆びたアームは折り畳まれ、動物達が眠りにつくようにじっとうずくまっていた。