綺麗な彫刻 /青春小説
「深山くんさ、彫刻のモデルになってくれない?」
一ノ瀬沙和から言われたのは、
夕刻の水飲み場だった。
彼女の後ろで、
空は水色からオレンジ色のグラデーションを描いている。
僕の首からは、拭い切れなかった水道水と、
頭の毛穴から溢れた汗とが一緒になって、
透明で大きな粒を作り、コンクリートに落ちて行く。
からかわれているのだと思った。
彫刻のモデルって、雑誌に載るような、
筋肉の陰影がたっぷりついた人がなるものだろ。
僕はイタリアかどこかに置かれている、石像を思い浮かべていた。
僕の身体は、それとはまるで逆だ。
くるくる天然パーマに、ふっくらとした体付き。
たっぷりついているのは筋肉ではなく、脂肪。
小学生の頃、「クマさんみたいで優しそう」と言われたことはあるけれど、女子にモテたことはない。
運動だって苦手だ。
5月の末に行われる体育祭の前日は、毎年、
「明日、地球が滅亡しますように」と呪いをかける。
クラスが変わって、連休が明けて、間もなく行われる体育祭。ここでカッコイイところを見せられれば、一年間、人気者の座を約束をされる。そして、へまをした奴はその逆だ。一年、陰口を叩かれ続ける。もちろんいつだって、僕は後者側の人間だ。
今年はくじ運が悪く、誰もやりたがらなかったクラス代表リレーの選手になってしまった。
最悪。
だから、今日もこんな時間まで練習だ。本当なら帰って、昨日ダウンロードしたばかりのゲームをやっているはずだったのに。
そう思いながらも必死で走っていたら、転んだ。他のリレーメンバーの視線が痛い。
練習は終わったというのに、顔を洗っても、汗は馬鹿みたいに出続ける。もうビシャビシャに濡れた雑巾みたいだなって、僕が僕を見たら思うだろう。女子に話しかけられたくない瞬間ランキングというものがあるなら、今この瞬間がぶっちぎり一番だ。
「なんの話?からかってんの?」
恥ずかしさのあまり、思っていた以上に冷たい声が出た。
「彫刻っ。私、美術部で、木彫りの彫刻作ってるの。
深山くんに、そのモデルになってほしい。
お礼は、ちゃんとするからさっ。」
僕の声の冷たさになんて、全く気に止めていないらしい。一ノ瀬は明るい声で言った。
「なんで僕なの?訳わかんない」
こんな雑巾みたいなやつ、僕なら絶対、選ばない。
「だって、綺麗だったから。」
一ノ瀬は、僕が思ったことをかき消すように言った。
「何が?」
「顔を洗ってる深山くんが。」
子供の頃はお世辞で、かわいいと近所のおばさんに言われたことはあるけれど、『綺麗』なんて言われたのは初めてだ。僕の今の姿と『綺麗』という言葉が全く結びつかなくて、なんだか恐ろしいものを聞いたと思った。
彼女は、今度は、目を細めてうっとりと言う。
「毛先がふわふわで、
ぜんぶの曲線がとっても綺麗」
風が吹き、一ノ瀬の長い髪がふわりと浮き上がった。
✴︎
一ノ瀬は美しいものが好きだった。
モデルを引き受ける前に、彼女はそれを僕に見せてくれた。
ただ、彼女の『美』の感覚は、僕にはちょっと理解し難いものだった。
画面が割れてしまったスマホ
よく洗った大粒の梅干の種
錆だらけの自転車のベル
そんなものをガチャガチャと、巾着袋に入れて持ち歩き、時々眺めては『綺麗』と呟いていた。
そして、それらをモデルにして、木彫りの彫刻を作っていた。彫刻は、美術室の一角にオブジェのように並べられていた。色は一切塗られていない。
スマホの画面の、蜘蛛の巣のような割れ目。
梅干しの種に刻まれた、無数の皺。
自転車のベルの、ゴリゴリとした錆の質感。
美術に詳しくない僕でも、見とれてしまうほどの見事さだった。木材だけでここまで、精巧なものが作れるのか。いや、ただ細かくモデルに似ているだけではない。無機質なものをモデルにして作っているはずなのに、刻まれた陰影からは、生命力を感じる。生きているものにしか出せないはずの迫力を、その彫刻は醸し出していた。
一ノ瀬は、美しいものを見ると、
それを自分の彫刻にしたくなるらしい。
それはどんな心情なのだろう。
彫ることで自分の内に刻み、自分のものにしてしまいたい、という欲望なのだろうか。
それとも、美しいものを自分が生み出すことへの幸福感なのか。
巾着袋に入っているもの以外で、
最近の彼女のお気に入りは、僕の指先にできたササクレらしい。
一ノ瀬は僕の手を握り、『綺麗』とため息を漏らすように言う。
僕は、変な気持ちになってしまう。一ノ瀬の手が重ねられていたところと、見られていた指先が、ジンと熱い。
「一ノ瀬の綺麗って、どういう意味なの?」
「そのまんまの意味よ」
「僕には、綺麗に見えないけどな。綺麗って、色彩が豊かとか、洗練された形とか、整理されているとかそういうことなんじゃないの?」
「そうなの?」
「たぶんね。」
なぜか、僕が答える側に回っていた。
答えてみたものの、それが正解かなんて本当のところ、僕もよくわかっていなかった。本当は美しさにだって、もっと沢山あるのかもしれない。これまで僕は、その人が美しいと思うものを深く知るまで、誰かと一緒にいたことがなかっただけで。
だから、こう付け加えておいた。
「でも、一ノ瀬の綺麗もいいと思うけどね。」
一ノ瀬は、一瞬キョトンとしたあと、静かに微笑んだ。
「そうでしょ。ありがとう」
一ノ瀬が美しいものを彫刻にする理由が、
自分のものにしたいという欲からくるなら、僕は少しだけ嬉しい気がする。
こうして僕は、彼女の彫刻のモデルになった。
✴︎
「そこに座って。」
僕は、差し出された椅子に、従順に腰を下ろした。そして、ただひたすら、作品が出来上がるまで座り続けた。
窓の外は、雨だった。飽きもせず、音もなく降り続く、梅雨の雨だった。
いつもは、どこか夢の中にいるようなことも多いのに、彫刻刀を持った一ノ瀬は、人が変わったかのように大胆だった。
まず、紙にデッサンして型紙も作らなければ、
木に下書きもしない。
見たまま、そのままから、四角い木材を削っていく。
もしかしたら、型紙さえ作ってくれれば、僕がずっと座っている必要なんてなかったのかもしれないのだけれど、これが彼女の手法だと言うのだから仕方がない。僕は観念して、木彫りの彫刻という初めて目にする世界を、見つめることにした。
初めは大きいノコギリで筋を入れて、木の角の尖った部分を落としていく。
続いて、ノミやトンカチが登場する。
一ノ瀬の細く白い腕から筋が浮き、道具を力強く握る。
時々、射貫くような鋭い目で、僕を見つめる。
四角かった木材は、どんどん僕の形に丸みを帯びていく。
それから、彫刻刀を使って、細かな部分を次々と形作っていく。
彼女が持つ彫刻刀の刃先からは、
小さな円形の木くずが、一定のリズムで滑り落ちる。
ワックスのかかった教室の床に、木くずがふわふわと積み重なっていく。
僕は、その木くずをぼんやりと眺めたり、
小癪にも、この後、一ノ瀬と帰るときにどんな会話をしようかと考えを巡らせながら、
雨降る放課後を過ごす。
✴︎
梅雨は終わり、セミが鳴き始めた。
夏休みに入ってしばらくして、一ノ瀬の作品は完成した。
引き受けた時は、僕の顔の彫刻ができあがるとイメージしていたけれど、実際には、
フィギアのような大きさの全身と、
等倍比率のササクレのある手、2体を彼女は作り上げた。
手は追加で作りたくなったらしい。
自分がモデルだから、恥ずかしくて、出来の方はなんともコメントしづらいけれど、実に精巧でよく出来ているんじゃないかと思う。それから、全身像の僕の髪の毛が、美術室でふわふわと重なった木くずのように美しいと思った。
放課後の帰り道、
2体のどちらかをコンクールに出すのだと一ノ瀬は話してくれた。
「お礼は何がいい?」
「お礼って?」
「一番はじめに、モデルしてくれたら、お礼もするって言ったでしょ。
彫刻完成したからさ。何がいい?」
きた。本当は僕は、一ノ瀬からこの質問がくる日を待ち侘びていた。
答えはもうずっと前から決めていたのだけど、あくまで、ゆっくり、考えているふりをしてから答えた。
「うーん、僕、モデルで美術室に来ることがなくなったら、夏休みにすることがないからなぁ。帰宅部だし。
そうだ。神社のお祭りに、一緒に行ってくれない?夏のちょっとした思い出に。」
あくまで、何気なく。言えたと思う。
本当は、ものすごく欲しいのだ。夏ってなんでこんな思い出を作りたくなるんだろう。
「やだ。」
一ノ瀬の答えは、とりつく島もない。
「な、なんで?」
僕は焦った。
「お祭りって、好きじゃないの。人は多いし、息苦しいし。それに、生き物を狭いところで売っているの見るのも、鳥肌がたつ」
がっくり来た。あんなに何日も悩んだのに。恥ずかしい。
お祭りって皆が楽しいものだと思っていたけど、違うんだな。一ノ瀬のこと、まだ何も分かっていなかった。落ち込んで、続く言葉が出てこない。
代わりに、一ノ瀬が言う。
「んーー。夏の思い出なら、海はどう?
ちょっと遠出になっちゃうけど。貝殻とか拾うのは好きなんだ」
「ぃいじゃんっ!!海、海!!いいの?海!!」
声が裏返る。もう断られたとばかりに思っていたのに、まさかの提案だ。
「深山くん、言っとくけど、私、水着は着ないからね?」
「ば、わ、お、い、そんなこと一言も言ってないだろ?」
ふふふ、と一ノ瀬は笑う。
「海、久しぶり。この辺りは、見渡す限り山ばかりだから。楽しみだなぁ」
「僕も。」
と、答えた気持ちに嘘はない。
けれど、一抹の不安もよぎった。
彼女が『綺麗』と言ってくれる貝殻は、どんな形なんだろう。
僕にはそれが、見つけられるのだろうか。
夏のもくもくと大きな雲のどこかに、
その解答が浮かび上がってこないかと、僕は見渡してみたけれど、
雲はどこまでも、白紙のまま広がってるだけだった。
(おしまい)
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