Ⅱ章 彼女の場合⑨
大学に入ってからの日々は、高校生活とはまるで違った。
好きなように選べる講義やサークル、学園祭。
夏はフェスやサークルの合宿に行き、冬になればスキーや旅行に行った。
隙間時間はサークル棟に行き、講義が終わると食堂で友達と中身のない話をして帰った。
アルバイトも経験した。
全くの他人を相手にしてちゃんと振る舞うこと。
任された仕事をこなすこと。時間と労力を割いてお金を貰うこと。
貰ったお金を自分のために自由に使っていいこと。
今まで自分が利用する側だった「生活の一部」に回ること。
そのどれもが新鮮だった。
自分の視野が拡がっていく実感があった。
高校時代のような部活と授業だけの日々ではない。
自分の時間を自由に使うことの喜びを大学生になって初めて知った。
学生生活に慣れてきた最初の8月、恋人が出来た。
長くは続かなかったけれど、初めて異性から向けられた好意が嬉しかった。同時に自分の中で女という自覚が芽生えた。それから服装やメイクに気を使うようになって、着飾ることが楽しくなった。
その後も2人、3人と「彼」が出来たけど、長くは続かなかった。
4人目と別れたとき、ようやく自分は「受け身の恋愛」が出来ないのだと気付いた。
私の恋は、「追われる側」ではなくて「追う側」なのだろう。
それが大学生活の半分を費やして出た答えだった。
大学に入って3年目の9月、ハルから連絡があった。
久しぶりに皆で集まって飲もうという話だった。
私のように実家から通う者もいれば、ハルや慧、隆のように県外で一人暮らしをしている者もいた。それぞれの場所で新しい生活を始めたのだから自然と疎遠になった。――――考えれば、卒業してから2年も会っていない。
二つ返事で答え、返ってきた日付を確認する。
当日はどんな服を着ていこう。どんな化粧をしていこう。コーデは……。
そう考えている自分に以前にはない変化を自覚する。
――――私は、本当に女になったんだ。
今の私を見たら、どんな顔をするのだろう。
慧や隆は驚くに違いない。ハルと純は想像できないが……。
亮二は……。――――彼はいったい、どんな反応をするのだろう……。
誰が参加するかもわからない同窓会に胸を膨らませ、私は出来るだけ大人を意識した服装を準備した。腰に黒いラインが入ったグリーンのワンピースに少し厚底の革靴。小物の時計は、明るい茶色のバンドと金の縁取りの時計とピンクゴールドのピアスを合わせた。
鏡に映った自分を見つめて、ジャージ姿だった頃との変わり様に改めて驚く。指で揺らしたピアスは、振れるたびに埋め込まれた宝石を輝かせた。
「久しぶり。随分と大人っぽくなったな」
そう言って、迎えに来たハルは少し老けて見えた。オックスフォードシャツを着こみ、腕まくりをしている。真面目な医学生と言った風貌だった。
「久しぶり。イイ女になったでしょう?そっちはなんか老けたね」
「そりゃずっと勉強漬けだから。課題も多くて……。追い付くので必死だよ」
「目指してた国立の医学部受かったんだもんね。おめでとう」
「ありがとう。でも実際、受かってからの方がキツくて死にそうだ」
「アンタでもそう思うんだ。弱音とか言わないタイプだったじゃん」
「それは部長だったからさ。確かになるべく言わないようにしてたけどさ。言いたくなる時もあるんだよ……。僕も人間だから」
確かにね、と言いながら、店へ入ると慧と隆がいた。
調理師学校を卒業して、ひと足先に就職した隆は元来の寡黙さもあってか、更に大人っぽく見えた。というより確実にオジサンに近付いていた。
慧はラフな服装だったが、大学の教科書を慧に見せながら授業の話をしていた。
「久しぶり。アンタたちあんまり変わらないね」
「お?舞衣か?すげぇ変わったな!あっは!だいぶ化けた!!」
「おい慧、それ失礼だぞ。久しぶり。舞衣、綺麗になったな」
驚くと言っても、これくらいの反応だろうということは分かっていた。
まるで珍しいものを見るかのように話す慧とそれを諫める隆のやり取りを流しつつ、私はハルへ聴いた。
――――あとは亮二だけだよ。
彼の言葉に胸が高鳴る。
図ったかのように「よっ」という声が聞こえた。
声の方へ視線を移す。
黒いレザーのジャケットとタイトなジーンズがすらりとした彼の体系の美しさを強調させ、端正な顔と相まってひと際、彼の存在を輝かせていた。
久しぶりに会った彼は、変わらずにカッコ良いと思った。
例えバスケをしていなくても輝いていた。
その時、私は自分を理解した。
――――やっぱり、私のカタチは「焦がれる恋」なのだ。
「よう、舞衣。随分、イイ女になったな」
「ありがと。アンタもカッコよくなったじゃん。夏希とは順調?」
「順調……ではないな。最近はよくケンカしてるから」
「どうせアンタが悪いんでしょ?」
「うるせぇなぁ……。まぁそうなんだろうけど」
皆が座敷のテーブルの席に座るのを確認すると、ハルが音頭を取った。
「皆集まってくれてありがとう。由比ヶ浜高校バスケ部、同窓会を始めよう」
そう言って、乾杯が終わると各々の近況報告が始まった。
慧が他県の国立大の数学科に入学、紆余曲折を経て、今は3つ歳上の院生と同棲しており、2人して留年に怯える日々を送っていること。
隆は、専門学校を卒業後、実家へ戻らずに今年から料亭で修業しており、大将の娘といい感じになっていること。
亮二はサークルには入らず、バイトと飲み会を繰り返し、最近は夏希と喧嘩ばかりしていること。
舞衣は?と聴かれて、私は困惑した。
同じ2年半の時間が過ぎたというのに、自分の時間を伝える言葉が出てこなかった。
「それなりだよ。パン屋のバイトして、サークル入って、彼氏が出来て、お洒落して、友達と旅行行って……。だいたいそんな感じ」
少し考えて絞り出した答えは、ザックリとしていたが概ね当たっていた。
私は、会話の流れが途切れないよう精いっぱい取り繕った。
最後にハルの番になった。
彼は、一浪して医大に受かったもののレベルが高く、追い付く日々だと言って終わった。
「……それだけじゃねぇだろ?」
そう言ったのは、慧だった。
その言葉に反応して皆がハルを見る。
ハルというより、ハルの左手の薬指に視線を向けた。
――――鷲崎 鮮花(わしざき あざか)。
ハルが医大を目指すきっかけになった恋人。
彼女の難病治療のため、彼は今も努力を続けている。
その命を一秒でも長く持たせるため……。
あぁ……。これか。といって、彼は左手にはめたリングを照明にかざして続けた。
「……うん。結婚したんだ。最近は安定してるけどわからないから。――――だから後悔しないように2人だけのモノを作っていこうってさ」
私は、彼の生きているリアル(現実)との違いを理解した。
――――私の過ごしている日常からあまりに遠い。
恋じゃねぇな。そこまで行くと、そう言ったのは慧だった。
「……そうだな。でも良いんじゃないか?そんなカタチがあったって。互いに望んでるなら、これ以上ない幸福じゃないのか」
隆は肩ひじを立ててビールを飲みながら、彼のリングを眺めている。
「それはそれとして仕事場の仲居とイイ感じなんだろ?お前はさっさと手を出しちまえよ」
「大将の娘だから悩んでんだよ……。社会人になると立場があってだな。――――簡単にはいかないんだよ。そういうお前はどうなんだ、亮二」
「ウチ?ウチは……まぁ別にいいじゃねぇか。そんなことよりハル。純はどうした?アイツだけいねぇじゃん」
「純は、U-22の日本代表の遠征。やっとスタメンになれるかもしれないってさ」
「マジか!俺らの身内から日本代表が出るのかよ」
慧の喜びとは対照的に、亮二の表情が曇っているのが分かった。
「そうなんだ。まぁ来れないのはしょうがないよ。というわけで慧と同棲してる年上彼女との馴れ初めでもツマミにして呑もうか」
私はそう言って、話題を変えた。
結局、宴会は23時でお開きになった。
酔った隆と慧の介抱をすると言って、ハルと別れた。
自宅が東京組と神奈川組だったから、必然的に私は亮二とふたりで帰ることになった。
――――ふたりで帰るのは、おそらく初めてだろうな。
そんなことを思いながら、JRの湘南新宿ラインの快速の終電を確かめる。
23時に2本。まだ最後の1本には間に合う。
彼は煙草に火を点けて、ゆっくりと深くそれを吸った。
一度、肺を通してから脳に届くように。まるでその様は、自分を落ち着かせるようにも見えた。
「アンタさ、純の話聴いたときにイラっとしたでしょ」
居酒屋を出て、公園で彼が煙草を吸っているのを見ながら言った。
公園横のフェンスの先にはバスケットコートがある。
こんな時間でも同世代か、少し下の子たちが楽しそうにボールを追い掛け、ゴールを狙って興じている。照明も不安定なのに。
彼は、それをぼんやりと眺めていた。
「あぁ……自分の中で納得出来てねぇんだよ、まだ。――――アイツの方が俺より上手くて、評価されて、実際にそれで活躍してるのがさ。努力はしてるだろう。それなりの苦労もあると思う。だけどさ、それでも俺は俺が評価されたかったんだ」
「……わかるよ、それ。結局、どんなに頑張ったって評価は自分じゃなくて相手や周囲がするもの。頑張り方を教えてくれる人がいなければ、頑張る理由を教えてくれる人もいない。そうやって放り出されて、頑張って、否定されて、喪失感の海に投げ出されるのよ」
彼のように。私のように。
「なんか言い方が文学的だな。でもそうだよな。――――だから今でも思うんだ。なんのために頑張って、何のために負けたんだってさ。大学入ってから何回も考えた。考えて考えて、それでもまだ答えが出ない。多分、俺はあのコートに自分を置いてきたままなんだ」
コートをぼんやりと照らす灯りがチカッチカッと時折、消える。
「理解ってさ。2種類の段階があると思うんだ」
こちらを向いて、彼は話を続けた。
「ひとつは理屈としての理解。要するに頭でわかっていること。もうひとつがそれを納得すること。体感したり、実感したり、どういうことか理屈を本当に解釈すること。俺はさ、あいつ等みたいに高校生活を納得出来てねぇんだよ」
彼は、吸い終わった煙草を地面に落とす。散った灰や役目を終えたそれを躊躇なく踏みつぶして火を消した。今度は空を見上げていた。ビル街の灯りが滲み、星を消した空はどこか儚げな気持ちを抱かせる絵画に見えた。
「夏希がさ。もう忘れろ、ってうるさいんだ。昔の事なんか引きずってないで、逃げないで今を生きてくれってさ……。最初、俺もそう思ってサークルに入った。でもそこにいる連中が求めてたのは、馴れ合いだって気付いてからは行けなくなった。こんな学生になりたくないと思ったから。代わりに夜にたくさんバイトを入れて、昼は講義取ってさ。バイト代が入ったら友達と浴びるように酒飲んで過ごしてた。気が付いたらさ。俺がなりたくなかった大学生と大して変わらなくなってたんだ……」
「そんなの私も変わらないよ。何がしたいか分からないまま学生やってる。近況報告とか言われても、あいつ等みたいにホイホイ出てくるほど目的持って生きてない。目的っていうのが、タイミングの問題なのか、人として持っているものなのかわからないけれど……」
「アンタはひとりじゃないよ」
自然と口に出たその言葉が、彼の心を動かした。
瞳に溜めた涙が溢れて、ポタッポタッっと流れていった。
そっか、と言いながらベンチに腰を下ろした彼は、伏せた顔を両手で覆った。それでもなお、涙が地面を濡らした。
そっか。彼の孤独は、あの日からずっと続いていたのか。
――――このことに気付いたのは私だけ。
私は、ベンチで泣きじゃくる彼を抱きしめた。
深く包み込むように、彼の脆さを確かめるように抱きしめた。
そうして抱きしめた腕から時計見て、終電がないことを確認する。
――――悪いオンナだな、私。
でも、もう良いや。
これが私のカタチなんだ。
その夜、私は初めて心の底まで満たされる快楽を知った。
ただの行為ではなく、ひたすらに互いの温かさを求め合う行為に溺れた。
それが抜け出せない深い闇の始まりだった。
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