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唯識の学び(3) 大乗仏教の深層心理学 『摂大乗論』を読む 第四章 菩薩になる方法<六波羅密>とは何か

昨年の5月から、成人発達理論の研究者である加藤洋平さんのゼミに参加し、大乗仏教の唯識について学んでいます[1]。
  このゼミでは、まず、太田久紀:増補改訂 玄奘三蔵訳『唯識三十頌』要講 について学び、その次に岡野守也:大乗仏教の深層心理学――『摂大乗論』を読む[2]について、毎週、学んでいます。
 今回は、第四章についてまとめたいと思います。

前回の復習ですが、「摂大乗論」の全体構造の概要を把握したいと思います。[2]

「大乗仏教の深層心理学: 摂大乗論を読む」[2]の目次


序章 ブッダからアサンガへ
第一章 心の深層にあるもの<アーラヤ>識とは何か
第二章 世界を見る角度<三性>とは何か
第三章 心の変容の方法<唯識観>とは何か
第四章 菩薩になる方法<六波羅密>とは何か
第五章 菩薩の発達段階論<十地>とは何か
第六章 菩薩の三つの学び<戒・定・慧>の三学とは何か
第七章 究極の自由<無住処涅槃>とは何か
第八章 究極のアイデンティティ<三種の仏身>とは何か
あとがき
新装版によせて

このように第一章では、「迷いと覚りの根拠としてのアーラヤ識」が、第二章では「迷いと覚りの構造的な違いを解明する三性説」が語られています。
 そこで「覚り」とは何かがしっかり理解できると、読者の心には自然ななりゆきとして、「ではどうしたら覚れるのか?」という問いが自然に湧いてくるでしょう。
 そうした問いに答えるように、摂大乗論の第三章から第八章まで、どうすれば、どういう段階を踏んで、迷いから悟りの境地へと入っていけるのか、理路整然と説かれています。いわば、唯識の「心理臨床論」(実践編)であります。

 「第三章 心の変容の方法<唯識観>とは何か」では、上記のどうすれば、どういう段階を踏んで、迷いから悟りの境地へと入っていけるのか、その全体のプロセスについて説かれています。

 「第四章 菩薩になる方法<六波羅密>とは何か」では、具体的に覚りに近づいていくための具体的な実践方法として、「六波羅蜜」について述べられています。

 波羅蜜とは、「迷いのこちらの岸から覚りの向こう岸にいくこと」、あるいは「完成の行」という意味で、「向こう岸に渡る船やいかだのような、完成に向かうための手段・方法」です。

具体的には 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧 の6つがあり、それで六波羅蜜と言われています。六波羅蜜は、大乗仏教における菩薩道の具体的な実践であり、悟りに至るための道筋を示しています。それぞれが菩薩としての完成を目指すための異なる側面をカバーしています。

  1. 布施(ふせ): 慈悲の実践として、物質的・精神的な援助を他者に施す。

  2. 持戒(じかい): 戒律を守り、道徳的な生活を送ることで、自己と他者に 害 を与えない。

  3. 忍辱(にんにく): 忍耐と寛容を実践し、怒りや不満を克服する。

  4. 精進(しょうじん): 怠惰を避け、善行に努力し続ける。

  5. 禅定(ぜんじょう): 瞑想による心の統一と平静を保つ。

  6. 智慧(ちえ): 真理を理解し、究極の悟りを得る。

これらの六つが揃うことで、自己中心的な煩悩から解放され、他者を助ける力を身につけることができます。

さて、1月4日のゼミでは、この六波羅蜜は、2つのカテゴリーに分類されるという議論がありました。その観点は、自利(自分に利する行為)と利他(他者に貢献する行為)です。すなわち、

【自利のカテゴリーに属する波羅蜜】
持戒、忍辱、精進、禅定、智慧
【利他のカテゴリーに属する波羅蜜】
布施

という視点での分類です。

一方、物事を分類する視点は、一般的に無数にあり、以下のようなカテゴリー分けも可能でしょう。

【世俗的な実践(方便波羅蜜)】
他者や社会との関わりの中で実践することで、自分の利他の心や徳を高めることに焦点を当てたもの。

  • 布施(ふせ)

  • 持戒(じかい)

  • 忍辱(にんにく)

  • 精進(しょうじん)

これらは、日常生活や他者との関係性の中で、行動を通じて菩薩としての資質を磨く手段です。

【究極的な智慧の実践(智慧波羅蜜)】
内面的な自己の探求や、悟りに至るための知恵を深めることに焦点を当てたもの。

  • 禅定(ぜんじょう)

  • 智慧(ちえ)

これらは、精神集中や瞑想を通じて内面的な悟りを得るための実践です。

上記の【世俗的な実践(方便波羅蜜)】は、個人の物理世界における活動、【究極的な智慧の実践(智慧波羅蜜)】は個人の内面の活動というように見立てることも可能であり、インテグラル理論の4象限[3]における個人の2つの象限における活動ともみなせますね!

また、利他とは何かについて、以下のような議論がありました。
今回の輪講の対象である文献[1]では、
『自分が他者に施しをするときに、
「私が私の生きがいのためにボランティア活動で実施する」のは、たとえ、その行為がその人の「生きがい」であっても、それが、私の生きがいとして「得る」もの、執着の対象になってしまうと、布施にはならないのである。』
という記述がありました。
 そのひとの内発的動機で(好きなことをしているという意味である意味、執着している)、他者に貢献することは素晴らしいことであり、愛や価値の循環で幸せや生きがいが生まれる素敵なことだと思っている私は、上記の「執着の対象になってしまうと布施にはならない」という文献[1]の解釈に違和感を覚えたのです。

 しかし、文献[1]では、その次に、以下のような記述がありました。
『さらに言えば、もっとも深いレベルでは、すべては一つなのだから、そういう意味では私もあなたもない。あるいは、あなたは私であり、私はあなたであるともいえる。だから、あなたが足りなくて困っていることは、実は私が困っていることになる。もし私にあれば、それであなたの足りないところを補うのは、実は自分が自分のためにやっていることなのだ、ということになる。』
 いやー、深いですね。
「第三章 心の変容の方法<唯識観>とは何か」では、

『究極の覚りの状態=無分別智(むふんべつち)の境地にいたると、深い喜びの世界に入ります。
修行者は、究極の真理を目指して、「すべては分離していない一つだという覚り=無分別智」に至ります。』
とありました。

このワンネス[4]や無境界[5],[6]の境地にいたることが、究極の幸せの状態であるということを、いろんな過去の聖人や宗教家が説いているんですね!

 以上が、『摂大乗論』を読む[2] 第四章の要旨です。
 ここまで、お読みくださって、ありがとうございます。
 次回は、第五章 菩薩の発達段階論<十地>とは何か を取り扱います。
お楽しみに!


https://note.com/ryuk/n/n7565cbaeb61e

[1] 

[2]

https://bit.ly/4gIgCrb


[3] 

[4] 

[5] 

[6]


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