難病になって1年半、ようやく向き合い方がわかってきた
朝、目が覚めると、目が見えなくなっている事実に気づいた。寝起きだからかなと思っていたのだけれど、何時間たっても目が見えないまま。どうやら難病の症状が悪化したみたいだ。
でも、不思議と焦りはない。「少し休んだらまた回復するだろう」ぐらいのテンションだった。そして、1日の療養をへて、また目がちゃんと見えるようになった。これが1年半前だったらきっと途方に暮れていたにちがいない。
2019年9月に、ベーチェット病にかかっていることが判明した。難病が発覚してからは、正直まともじゃなかった。両目が見えないため、日常生活すらままならない。目が見えていた当たり前の日常のありがたさを痛感した。
1人になると、自然に涙が流れる。目が見えない恐怖。治るかわからない絶望。止まれと願い続けても流れる涙。1ヶ月半近く毎日涙を流して知ったことは、涙はいくら流しても枯れないってこと。
いろんな人の支えのおかげで、1ヶ月半の療養生活をへて、社会復帰に成功した。1年半がたったいまも、まだ完全に受け入れられているかはわからない。でも、1年半の闘病生活で、難病との向き合い方がわかったような気がする。
時間が解決してくれた事実もあるが、僕の場合は、周りに理解のある人が増えたのが大きい要因だ。いろんな人が支えてくれている事実が、難病から逃げてはならないと思わせてくれたにちがいない。
つくづく1人ではないと思わされるし、心配してくれる人のためにも元気にならなくてはならないとも思わされる。難病の事実をこうしてnoteで発信する行為は、勇気が必要だったけれど、世界には温かい人がたくさんいるという気づきを与えてくれたため、発信して本当によかった。
「どんな問題も時間が解決してくれる」とよく耳にする。でも、それはきっと時間をかけて、ちゃんと向き合って、立ちふさがる壁を乗り越えてきただけだ。周りの人への感謝の気持ちも忘れてはならないが、ちゃんと向き合い続けているじぶんも褒めてあげなければいけない。
人生は「まさか」の連続で、坂を降っているときは、目の前にあるものに気づけないものだ。大事なものを見失いそうになったときは、深呼吸をして、いま目の前にあるものを数える。そして、僕の命はじぶんのものだけではないと言い聞かせる。
言葉で言うのは簡単だけれど、実際に行動は移すのは本当に難しいものだ。どうしても苦しいときは、周りに頼って、正しい道へと戻してもらう。大丈夫、僕は1人じゃないし、みんなも1人なんかじゃない。
実際に難病は、確実に回復へと向かっている。そして、いつか目がちゃんと見えるようになると僕は盲目的に信じている。たとえ目が見えなくなったとしても、最後までちゃんと生をまっとうしたい。
いくら嘆いても事実は覆らない。だからこそ、希望は捨てないし、絶望はちゃんと受け入れる。
少しだけ大人になったのかもしれない。
ただ慣れてきただけなのかもしれないけれど、これは大いなる前進だ。