自分に期待をしないことは、謙虚なんかじゃない。
謙虚であること、って人として重要な要素の一つだと思っている。
謙虚:自分を偉いと思わず、他に学ぶ気持ちがあること
自分の過去の功績や実力を棚にあげない。周りを上から見下したりはしない。常に周りから何か学べるものはないか、と探す。
「私は謙虚な人間です」
って自分から言うのもなんだか変な話だけど、その時点で謙虚ではないのかもしれないけど、でもせっかくなら謙虚な人間になりたい。
目指すは天然謙虚。
だけどその一方で、「謙虚」の意味をはき違えてもいけないと思っている。
それがタイトルにもあげた、「自分に期待をしないことは、謙虚なんかじゃない」につながる。
自分に期待をしない。これをもう少し深堀りしてみたい。
「私には到底できません」
「私なんてまだまだです」
「自分にできるとは思いませんでした」
そんなことを言ったことはないだろうか。
謙譲語という言葉の意味に関して言えば、自分を下に下げて相手を敬うというものである。
だけど謙虚は別に謙譲語ではない。
わざわざ自分を下にする必要はない。上から見下さなければいいだけ。
むしろ言霊。
自分で言った言葉は自分に返ってくる。自分の言葉は自分が一番よく聞いている。だから謙遜で吐いた言葉によって、どんどん縮こまっていきかねない。自分はそういう人間なんだと枠に当てはめていまいかねない。
よく「期待しない生き方が大事」という言葉を耳にするようになった。これは見る側面によって私も共感できる。例えば結果に左右されず、なるようになるさという視点を持つことや、努力してそれが結果に結びつかなかった時のモチベーションが、、、と考えると期待しない方が楽そうだ。
それに「他人に期待しない」という見方もある。
自分で相手の結果をコントロールすることは出来ないのだから、他人に期待するのは良くないよ、って。自分にできることに目を向けましょう、って。
もう1つそこに別の解釈を加えるとしたら、「他人の期待に生きない」こと。周りからの「こうなってほしい」「○○ならこれできるんじゃない?」周りからの期待って実にありがたい。それこそモチベーションになったりもする。
だけどそのあと押しはあくまで「後押し」と捉えないといけない。
自分のエンジンは自分自身。誰かの期待をエンジンにして、自分自身を殺してしまったらいざガス欠になったとき、もう走れなくなる。そもそも今自分がどこを走っているのかもわからなくなってしまいそう。
上記3つの「期待しない生き方」の良さを踏まえた上で、私は自分自身に対しては期待をして生きていきたい。
これも賛否はあるし、人それぞれ特徴もある。
自分の場合は自分にプレッシャーをかける。
「お前なら出来るだろ」
って。ストイックと言われることもあるけど、私はあまりそうは思わない。別に自分にプレッシャーをかけるけど、それに対して息苦しさを感じているわけではないから。
これを根拠もなく、ただただ「お前なら出来る。俺はなんでも出来るんだ」なんて言ってたらそこには謙虚の”け”の字もない。
だけど自分には何とかしてきた実績がある。
何とかできる自負がある。
そういった根拠に基づいて自分にプレッシャーをかける。
だけどそれでもめちゃくちゃ失敗することもある。そんな時すごい落ち込む。結構ナイーブだから(笑)でもそんな時、誰かが支えてくれてまた立ち上がれる。
「一人じゃないから」頑張れる。
自分に一番期待しているのは自分自身だ。
そして自分の出来ること、出来ないことを一番把握しているのも自分自身だ。
誰よりも自分に期待をしていて、誰よりも謙虚な人間。
そんな人間に私はなりたい。
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!