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「信じる」と「疑う」

信じるってなんだろう。
疑うってなんだろう。

また難しい話題だ。

大学生になるまでの自分は何かと「信じる」人間だった。

「信じる」、響きとしてはとても綺麗な言葉だ。「信じる」をモットーにしている人ってなんだか素敵なイメージがある。それだけで徳が高いような。

でも裏を返せば、「考えることを放棄している」と見られる節もある。ちょっと考えるのが大変だから取り敢えず信じてみる、とか疑うなら疑うなりの根拠・理由が必要で、じゃあどうしたらいいのかを考えることが必要で。それがめんどくさいから信じるとか。

いやもちろんそりゃ心から信じているケースってあるし、それが大半だと思う。

だけど実際私も、現実と向き合うのが怖かったり、そこから打開するための案を考えるのがめんどくさかったりで敢えて「信じる」ようにしていた過去ってある。

家族のことだったり、自分の将来のことだったり。

それは自分のことなのに、まるで他人事のような感覚だった。

それが良くないとはわかっていながらも、自分を守るためにはそれしかないとも思っていた。だから別にその選択に後悔はない。


大学に入って私は社会学を学んだ。

皆さんは社会学というものをご存知だろうか。ご存知なくても無理はない。社会学を学んできた身でも、「社会学とはなんぞや」と聞かれてパッと答えられるだけの明確な定義はもっていない。

だけど一つ確固たる軸としてあったのが、「当たり前を疑う」ということだった。

目の前で広がっていた理不尽や変な感じをなんとか「当たり前」として信じてきていた私にとって、その「当たり前を疑う」という学問に出会ったのはものすごく衝撃だった。

「あ、当たり前って疑っていいんだ」

それが率直な感想だった。

「当たり前は疑っちゃいけないもの、だって「そういうもの」だから。」という私の中にあった『当たり前』が、大きく崩れていった瞬間だった。


ここで「疑う」の定義を自分なりに考えてみたい。なぜならどうも「疑う」という言葉にはネガティブな印象がつきがちだから。

思うに「疑う」というのは決して相手を否定することではない、と考える。もっと言うと多様な視点から対象を捉えて、相手のいろんな部分を見に行く感覚。いろんな側面を見に行く感覚。その中で「本質」を見つけにいく感覚。

「本質」って言葉、抽象的すぎてあまり好きではないが。


だから情報を鵜呑みにしない。

常に他の捉え方、視点はないかを考える。早まったその判断で誰かを傷つけてしまうことがあるくらいなら、一度疑って冷静に考えてみた方がいい。

つまりここでの「疑う」は、”相手を疑う”というよりも”自分を疑う”に近いのかもしれない。

そうやって私は、大学時代の学びを通じ、疑うスキルを手に入れた。


じゃあ大人になった今どうするの?って話だ。

もう答えはこれまでに言葉に出ている。

「相手を信じ、自分を疑う」


相手は信じたい。

特に大切な人、家族、恋人、友達、先輩後輩。自分にとって大切な人たちのことは何が何でも信じたい。

たとえそれで1度2度裏切られたとしても、自分が信じると決めた相手なのだからそこに対して怒りとか後悔なんてものは生まれない。

大切な人を信じてあげられなくて何かあったとき、それは取り返しのつかないほど一生の後悔になってしまいそうだ。そんなのは絶対に嫌だ。

それからの付き合いというのはその先考えていけばいい。



一方で自分のことは疑ってかかりたい。

「本当にそれで正解なの?」
「それが限界なの?」
「もっといい方法ないの?」

満足してしまったらいずれ考えることを止めてしまう気がする。だってその先がないから。確かにその瞬間はそれが正解だったかもしれない。でも時間って流れる。結果的に正解も移り変わる。

それに誰かにとっての正解が、万人にとっての正解とも限らない。

常にその状況状況の正解は何か考える必要がある。


だから疑う。疑い続ける。もっともっとを考え続ける。

これは決して自信がないという意味での疑いではない。
もっといいものを届けるために疑いだ。


「信じる」と「疑う」。

相反しているようでそんなことはないと思っていて。

信じるも疑うも使い方だな、と思っている。



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塩浦良太
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