原書のすゝめ:#9 The Promise
原稿用紙10枚。
文章力をつけるために必要な枚数なのだそうだ。
私は、原稿用紙に換算すると8枚から10枚を目安に記事を書いている。きっちり字数を決めてもよいのだが、日本語以外の言語を使ったり、原文の引用があったりするため、厳密に決めないことにしたのだ。英語エッセイは手書きでA4用紙1枚程度である。
なぜ字数制限を設けるのかという問いに対して、Somerset Maughamサマセット・モームが明快な答えを用意してくれている。
モームは、アメリカの雑誌『コスモポリタンズ』のために書いた短編のことをスケッチと呼んでいる。同誌への寄稿に際して、モームは厳しい字数制限を求められた。こうした要求に対してモームはあえて長文を書き、その後で制限された字数に合わせて「文章を切り詰める」という手法をとった。そのためか、モームの短編はたしかにスケッチと呼ぶのがふさわしいように思われる。単に短いというだけでなく、不要な線が省略され、素描のようなしっかりとした骨格を持った作品という印象を受けるからである。モームの文章は簡潔で明晰、それでいて必要最低限の修飾が施されている。生涯吃音に悩まされたとは思えないほど、流暢で無駄のない語り口である。
Collected Short Stories Volume1に収録されている短編を読んでみると、それがよくわかる。
たとえば、『Honolulu』に次のような文がある。
* * *
The moon, nearly full, made a silver pathway over the dark sea. It shone from an unclouded sky.
なんとも研ぎ澄まされた文章である。
難解な単語を1つも使わず、満月を間近に控えた月の光が映す夜景を端的に美しく描写している。
また、『The Pool』には次のような描写がある。
The summer came. The highland valley was green and fragrant and the hills were gay with the heather.
どの作品においても、モームのスッキリした文体が全体に緩急をつけ、駄弁を許さない。それ故に読み手を飽きさせないのである。機知に富んだプロットも、読後に余韻を残しながら再読を誘う。
私が初めて短編を面白いと思ったのは、O・ヘンリーの作品だったと思う。星新一のショートショートにも一時のめり込んこともあったが、のちに飽きてしまった。このとき短編というものが持つ難しさを知った。
Vintage Classicのモーム短編集1には、30編が収録されている。興味がある方のために作品名は後述する。モームの作品の多くは邦訳されているが、私は敢えて邦訳ではなく原書にあたることにした。
文学作品となると敬遠される方もおられるかもしれないが、これらの短編の中には、『Rain』や『The happy couple』、『Before the party』のようなミステリー仕立ての作品もあるので、案外気軽に楽しめるのではないかと思う。
今回は、この短編集の中で私が気に入った作品を少しご紹介したい。
The Promise
My wife is a very unpunctual woman, so when, having arranged to lunch with her at Claridge's, I arrived there ten minutes late and did not find her I was not surprised. I ordered a cocktail. It was the height of the season and there were but two or three vacant tables in the lounge. Some of the people after an early meal were drinking their coffee, others like myself were toying with a dry Martini ; the women in their summer frocks looked gay and charming and the men debonair ; but I could see no one whose appearance sufficiently interested me to occupy the quarter of an hour I was expecting to wait.
モームの作品に登場する女性は、悪女とまでは言わないが、小悪魔的な女性が多い。この作品でも、冒頭で時間にルーズな妻がいきなり登場する。しかも、高級ホテルのクラリッジでランチの約束をしたのに、妻は現れないのだ。
私が興味を惹かれたのは、次の部分である。
* * *
My wife tells me that she can wear neither a turquoise nor watch, for the turquoise turns green and the watch stops ; and this she attributes to the malignity of fate.
時計が止まるのはよいとして、トルコ石が緑色になる、というのはどういう意味だろう。辞書を引いてみたが、熟語でも慣用句でもない。当時流行った表現なのだろうか。それとも、トルコ石の色が変わると不吉なものを表すというような隠喩なのだろうか。インターネットで検索すると、「トルコ石は多孔質という性質を持っているためコーティングが施されていない場合は、この孔に汗などが入って変色することがある」と書いてある。時間とともに変色するトルコ石になぞらえて、ルーズな妻の時間の観念を表そうとしているのだろうか。しかし、そのことがなぜ運命のいたずらになるのだろう。
私はこの1文に引っ掛かってしまった。どうでもいい文章なのかもしれないが、こういう喉に刺さる小骨のような文章に出会うと、気になって仕方がない。邦訳を探したが、なかなか見つからない。ようやく『コスモポリタンズ』(ちくま文庫)という本に収録されているのを見つけたのだが、あいにく書店にも図書館にもない。そこで、この文章の意味を確かめるためだけに、わざわざオンラインで購入することにしたのである。
2日後、本が到着するやいなや、私は早速封を開けて問題の箇所を探した。きっと答えが得られるに違いない。私の期待は膨らみに膨らみ、ページをめくる手にもどかしさすら覚えた。
モームの文章は、短いが故に奥深く、読み手に謎解きを促すような手招きをしている。私は推理小説で犯人を探すような気持ちで、件の文章を見つけた。邦訳では次のようになっていた。
邦訳を手に、しばらく呆然とした。
原文そのままである。
この文章が気になってあれほど辞書を引き、インターネットで検索し、苦心して邦訳まで手に入れたのに、結局、トルコ石の謎は解けなかった。
切り詰められた文体の深い味を堪能するには、言語の学習だけではなく、自分の味覚を鍛える必要があるということを、こういう時に痛感する。
<原書のすゝめ>シリーズ(8)
※<原書のすゝめ>シリーズのコンセプトはこちらの記事をご覧ください。