古典100選(71)源家長日記

残り30作品となった最初の作品は、源家長(みなもとのいえなが)の『源家長日記』である。

1210年頃、後鳥羽上皇の命で1201年から続けられていた『新古今和歌集』の編纂が完了した。

後鳥羽上皇は、1221年の承久の乱で、北条義時に敗れて島流しになってしまったことは多くの人がご存じだろう。

藤原定家をはじめ、源通具・六条有家・藤原家隆・飛鳥井雅経の5人の撰者が、新古今和歌集の編纂にあたったときの様子が描かれた日記である。

では、原文を読んでみよう。

①去年(こぞ)の神無月の頃より、和歌所(わかどころ)にて寄人(よりうど)たち召し集めて、辰の時ばかりより日の暮るるまで手もたゆく、あるは書き、あるは切り継ぎ、心の暇もなし。
②すべてこの歌撰らせ給へるさま、まことに毛を吹き疵を求めらる。
③五人の撰者、おのおの撰し上げて後、ことごとく御覧じ通して、その中にさもあるを御点ありて、左近将監(しょうげん)清範書き出だして後、それをまた御覧じて、三度まで書き出ださる。
④まことに、人柄の高く、下り、賢く、愚かなるにもよらず、ただ、歌の体(てい)を先として、なかなか数ならぬ片山寺の法師ばらなどまで、この道に巧みなるはおのづから漏れざるも侍るべし。
⑤その五人の撰歌、別々に御点を書き出だしたるを寄せて、ひとへに部類せられしかば、さばかりところ狭げなること侍らず。
⑥すべて二千首に及べるを、そこら御覧じ交さ返させ給へれば、皆この歌どもを御心の内に浮かべさせ給へるぞ、さもありがたきまでおぼえさせ給へる。
⑦されど、まさしうさほどとは思ひ参らせざりしに、「試みよ」と仰せられて、部類したるを二三巻取り出だされて、「上(かみ)を読め。下(しも)をば、皆仰せられむ」とて、一巻をひき隠して、上を読み侍れば、下はことごとくに暗からず。
⑧これは、ことわりなる方も侍る。
⑨ただ仮に二三と御覧じたることだに、つゆ忘れさせ給はず。
⑩まして、たびたび撰らせ給ふとて善し悪しを思し召し分けて、いづれか御心の底に留まらざるべき。
⑪昔も例(ためし)なき撰集に侍れば、さりともと思へる歌詠みどもの漏れて、思ひ思ひの縁(よすが)尋ね、あるひは歌を詠みて添へ、畏(かしこ)き言葉を尽くして申し文を書き、方々より申しあへるさま、まことに雨の脚よりも繁し。
⑫この頃は万機の政(まつりごと)もさし置かれて、大事とはこの歌の沙汰のみぞ侍る。
⑬職事(しきじ)も院司(いんじ)も、「暇ある頃かな」と、申し合へる。
⑭ある職事の、よにことなきことの、しかもさせる大事にはあらざるを、繰り懸け申し侍りしに、むつかしげに思し召して、「この頃は、かやうのことの耳にも入らぬなり。新古今の部類終はりて、耳はあらんずるぞ」と、仰せられしが、優しく承りし。
⑮はかなき御戯れ言も耳とどまり、心動かずといふことなし。
⑯さて部類も終はり方になりたりしに、寄人たちおのおの名残惜しみなどして、老少を分かちて歌詠みて番(つが)ひ侍りき。
⑰勝ち負けを定むることは、召し寄せて御勅判(ちょくはん)に及べり。
⑱家隆朝臣の「濡れてや鹿の」とこの度(たび)詠みて、やがてこの集に入りて侍り。
⑲すべてこの勅撰には病ある歌などを捨てられず、ただ良きを先とせり。
⑳かつは、古き跡を訪はるるゆゑなり。
㉑家隆の朝臣歌に、

逢ふと見て    ことぞともなく    明けにけり
はかなの夢の    忘れがたみや

㉒これも病ひ侍り。
㉓このほかにもなほや侍るらん。
㉔おぼゆるばかりを書き載せ侍り。

以上である。

源家長は、後鳥羽上皇に仕えていて、和歌所の「開闔(かいこう)」という役職に就いていた。今で言うなら、事務長のようなものである。

⑦の文のように、後鳥羽上皇が上の句を聞いただけで、下の句を諳んじることができると書かれているが、後鳥羽上皇は本当に和歌が好きで、その才能もあった。

⑫の文にもあるが、肝心な政務(=院政)を後回しにして、専ら編纂に関わっていたのだから、ものすごい情熱だったのが分かるだろう。

『新古今和歌集』は藤原定家が中心になって編纂したことがよく言われているが、実際は、後鳥羽上皇の影響力が大きかったのである。

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