古典100選(83)無名草子
今日は、鎌倉時代に書かれた『無名草子』(むみょうぞうし)の紹介である。
同じ時期に鴨長明が書いた『無名抄』とは違うので、注意してほしい。『無名抄』は、すでに本シリーズで紹介している。
『無名草子』は、1200年ごろに書かれたものだが、作者は不明である。
この作品に、紫式部と清少納言のことが書かれているのだが、今日は紫式部のことが書かれている部分を紹介しよう。
では、原文を読んでみよう。句点がなく、読点で区切られながら長い文章が続いているので、読みづらいかもしれない。
(A)「繰り言のやうには侍れど、尽きもせず、うらやましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院、『つれづれ慰みぬべき物語や候ふ。』と尋ね参らせさせ給へりけるに、紫式部を召して、『何をか参らすべき。』と仰せられければ、『めづらしきものは、何か侍るべき。新しく作りて参らせ給へかし。』と申しければ、『作れ。』と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるこそ、いみじくめでたく侍れ。」と言ふ人侍れば、
(B)また、「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名は付けたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。 その人の日記といふもの侍りしにも、『参りける初めばかり、恥づかしうも、心にくくも、また添ひ苦しうもあらむずらむと、おのおの思へりけるほどに、いと思はずにほけづき、かたほにて、一文字をだに引かぬさまなりければ、かく思はずと、友達ども思はる。』などこそ見えて侍れ。君の御ありさまなどをば、いみじくめでたく思ひ聞こえながら、つゆばかりも、かけかけしく馴らし顔に聞こえ出でぬほども、いみじく、また、皇太后宮の御事を、限りなくめでたく聞こゆるにつけても、愛敬づきなつかしく候ひけるほどのことも、君の御ありさまも、なつかしくいみじくおはしましし、など聞こえ表したるも、心に似ぬ体にてあめる。 かつはまた、御心柄なるべし。」
以上である。
AとBの2人の人間がそれぞれ語ったことを、「」の中の文章を読んで理解してもらえれば良いのだが、やっかいなのは、その「」の中にも会話文があるため、『』がさらに出てきていることである。
かろうじて紫式部の名前と『源氏』(=源氏物語)という固有名詞があることに、少しは読めそうだと安心はできるのだが、それでも「大斎院」や「上東門院」、「君」や「皇太后宮」が誰なのか分からないとイメージがしづらいだろう。
大斎院(おおさいいん)は「選子内親王(せんしないしんのう)」(=村上天皇の10番目の皇女で、1000年のとき36才)、上東門院(じょうとうもんいん)と皇太后宮は同一人物で「藤原彰子」(=道長の長女で、一条天皇の后。1000年のとき12才)、君は「藤原道長」(=1000年のとき34才)である。
紫式部は、藤原道長と同世代、一条天皇は1000年のときにちょうど20才だった。
こういった関係する人物の年齢などを把握することで、作品に書かれていることも少しずつ理解できるだろう。
ちなみに、上記の文章の中では、次のような部分が書かれてある。
その人の日記といふもの侍りしにも、『参りける初めばかり、恥づかしうも、心にくくも、また添ひ苦しうもあらむずらむと、おのおの思へりけるほどに、いと思はずにほけづき、かたほにて、一文字をだに引かぬさまなりければ、かく思はずと、友達ども思はる。』などこそ見えて侍れ。
これは、『紫式部日記』で紫式部自身が書いていることを取り上げたものだが、そのことに気づいた人は素晴らしい。