古典100選(34)無名抄
昨日の『仁勢物語』は、江戸時代初期の徳川家光の時代(1639年頃)に成立したものだが、今日は、鎌倉時代初期にさかのぼってみよう。
『無名抄』(むみょうしょう)は、1212年頃、鴨長明が著した歌論書である。
第17回で紹介した『方丈記』の作者である。
また、この歌論書には、第28回の『建礼門院右京大夫集』でも登場した藤原俊成(=藤原定家の父)が、また登場する。無名抄では、藤原俊成は「五条三位入道」となっている。
では、原文を読んでみよう。
俊恵(しゅんえ)いはく、「五条三位入道のもとにまうでたりしついでに、
『御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』 と聞こえしかば、
『 夕されば 野辺の秋風 身にしみて
うづら鳴くなり 深草の里
これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる。』 と言はれしを、
俊恵またいはく、
『世にあまねく人の申し侍るは、
面影に 花の姿を 先立てて
幾重越え来ぬ 峰の白雲
これを優れたるように申し侍るはいかに。』 と聞こゆれば、
『いさ、よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』 とぞ侍りし。」 と語りて、
これをうちうちに申ししは、
「かの歌は、『身にしみて』という腰の句いみじう無念におぼゆるなり、これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」 とて、
そのついでに、
「わが歌の中には、
み吉野の 山かき曇り 雪降れば
ふもとの里は うちしぐれつつ
これをなむ、かのたぐひにせんと思う給ふる。もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、
『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」 とぞ。
以上である。
この文章に登場する「俊恵」というのは、俊恵法師のことで、鴨長明の師匠にあたる。
俊恵法師は、鎌倉時代が始まる頃(1191年頃)に亡くなっている。藤原俊成(=五条三位入道)は、『建礼門院右京大夫集』でも分かるようにさらに長生きしていたのだが、実は、俊恵法師とほぼ同い年だったのである。
鴨長明は、俊恵法師が亡くなったときにまだ36才だったが、おそらく生前にいろいろと和歌について指導を受けていたのだろう。
ここで鴨長明が言いたいことは、藤原俊成と俊恵法師のそれぞれが自賛した和歌について取り上げているが、俊恵法師が藤原俊成が自賛した和歌に注文をつけたことなのである。
和歌の中に、わざわざ「身にしみて」という言葉を入れるのは残念だと(=言わずとも風流は感じ取れるのに、入れたことで質が落ちてしまっている)俊恵法師は説いている。
藤原俊成と俊恵法師が自画自賛した和歌は、1235年、俊成の子どもの藤原定家によって『新勅撰和歌集』に収録された。
奇しくも、定家は、俊恵法師とほぼ同じ79年の生涯であり、現代の私たちに親しまれている「小倉百人一首」も遺して1241年に亡くなったのだ。