古典100選(82)春雨物語
本シリーズは、これまでは平安時代以降の人物が登場していたが、前回の記事でスサノオノミコトが初めて紀貫之の『古今和歌集』仮名序で出てきたように、奈良時代以前の人物が登場する。
飛鳥時代の歌人だった柿本人麻呂、奈良時代の歌人だった山部赤人である。
そして、この2人について紀貫之と同様に、作品の中で取り上げたのが、『春雨物語』の作者である上田秋成である。
本シリーズですでに紹介した『雨月物語』の作者でもある。
今日紹介するのは、物語ではなくて、『春雨物語』の中で「歌のほまれ」と題されて語られている歌論である。
では、原文を読んでみよう。
①山部赤人(やまべのあかひと)の、
わかの浦に 潮満ちくれば 潟(かた)をなみ
芦辺(あしべ)をさして 鶴(たづ)鳴きわたる
といふ歌は、人麻呂の「ほのぼのと明石の浦の朝霧」に並べて、歌の父母のやうに言ひ伝へたりけり。
②この時の帝(みかど)は、聖武天皇にておはしまししが、筑紫に広継(ひろつぐ)が反逆せしかば、都に内応の者あらむかとて恐れ給ひ、巡幸と呼ばせて、伊賀、伊勢、志摩の国、尾張、三河の国々に行きめぐらせ給ふときに、伊勢の三重郡阿虞(あご)の浦にて詠ませし御(おおん)、
妹(いも)に恋ふ 阿虞の松原 見わたせば
潮干の潟に 鶴鳴きわたる
③また、この巡幸に遠く備へありて、舎人(とねり)あまた御先に立ちて見巡る中に、高市黒人(たけちのくろうづ)が、尾張の愛智(あゆち)郡の浦辺(うらべ)に立ちて詠みける、
桜田へ 鶴鳴きわたる あゆち潟
潮干の潟に 鶴鳴きわたる
④これらは、同じ帝に仕うまつりて、御を犯すべきにあらず。
⑤昔の人は、ただうち見るままを詠み出だししが、前(さき)の人のしか詠みしとも知らで言ひしものなり。
⑥赤人の歌は、紀の国に行幸の御供仕うまつりて詠みしなるべし。
⑦さるは、同じこと言ひしとて、とがむる人もあらず、浦山のたたずまひ、花鳥の見るまさめに詠みし、そのけしき絵に写し得がたしとて、めでては詠みしなり。
⑧また、同じ『万葉集』に、詠み人知られぬ歌、
難波(なにわ)潟 潮干に立ちて 見わたせば
淡路の島へ 鶴鳴きわたる
⑨これまた同じ心なり。
⑩いにしへの人の心直(なお)くて、人の歌犯すといふことなく思ひは述べたるものなり。
⑪歌詠むはおのが心のままに、また、浦山のたたずまひ、花鳥の色音(いろね)、いつたがふべきにあらず。
⑫ただただあはれと思ふことは、すなほに詠みたる。
⑬これをなむ、まことの道とは、歌を言ふべかりける。
以上である。
上記の文章では、奈良時代の帝だった聖武天皇も登場している。
上田秋成が歌論の中で言いたいことは、似たような和歌でも、決して盗作や真似をしているのではなく、「あはれ」と感じたことを素直に詠んだ結果だということである。
聖武天皇が詠んだ和歌と、高市黒人が詠んだ和歌の下の句が同じなのも、たまたま一致しただけだという。
上田秋成も、紀貫之の『古今和歌集』の仮名序を読んだようであるが、この「歌のほまれ」という文章を鵜呑みにしてはいけない。
かといって、上田秋成がデタラメを書いているのだと非難するのも違う。
そこは、古典研究をしている人にしか分からない部分があるので、素人の私たちは「へえー」という感じで読むのが良いだろう。
それにしても、「潮干」とか「鶴(たづ)鳴きわたる」という言葉が、1300年以上も前の和歌に使われているのは、非常に感慨深いことである。