世界(宇宙)における物の存在、物体の運動などを条件の制限なく、主客一致してそのまま認識することが可能かについての考察〜「純粋経験」の概念を用いることにより〜
前回の「ニュートンの運動方程式を始めとした宇宙に関する自然科学の理論と、この宇宙の他の知的生命体、さらに他の宇宙の知的生命体により構築されている理論との関係についての考察」では、地球人、あるいは他の知的体である宇宙人などによる世界(宇宙)の方程式による記述は、世界の部分的な解釈であって、全体をそのまま記述するものではないと述べました
その最後に、では世界(宇宙)全体をそのまま認識する術はあるのか、とも述べました
結論から言うと、あるとしたら、哲学者 西田幾多郎が唱えた「純粋経験*1」によるしかないと考えます
「純粋経験」についての説明は参考文献にありますが、私なりに説明しますと、世界(宇宙)を私たちが認識する時、私たちは自分の言語などを持ってして、その世界を各対象に分解して意味付け、構造化します
しかしながら、そのことによって、世界そのものと私たちが構造化した解釈世界は分断され、客観ー主観が分離してしまい完全には一致しなくなってしまいます
そこで、西田は、私たちが“ハッと”認識は開始するものの、世界を言葉などで解釈、分解する前の、未構造化の世界(宇宙)、世界(宇宙)そのものに直面した瞬間こそが、客観ー主観が一致している状態であると述べました
「主客合一」の状態です
実は、この「純粋経験」による「主客合一」の状態で、私たち世界(宇宙)に対峙する時、世界(宇宙)の一部だけを認識・解釈するのではなく、全体をそのまま認識することになるのではないかと自分も考えるのです
物の存在しかり、物体の運動の姿しかり、など…
ここで、この「純粋経験」的な世界(宇宙)の認識・解釈は、哲学者 ウィトゲンシュタインの世界認識に関するトートロジーについての言及*2に類似しているかもしれません
「純粋経験」による「主客合一」の際の世界(宇宙)認識では、世界を解釈、構造化せず何の情報ももたらされないからです
トートロジーからも何の情報はもたらされません
実のところ、世界(宇宙)全体をそのまま認識するというのは、以上の様なことなのかもしれません
ただ、自分は「純粋経験」の認識は、認識主体の条件により、違いが生じると思うのです
私たち人間と、仮に猿や犬猫や鳥や爬虫類や両生類や魚類や原始動物や単細胞生物によって、知覚による世界(宇宙)に対する認知機能は異なります
たとえ「純粋経験」が言語等機能による解釈前の認知だとしても、それぞれの生物の知覚の違いに応じて、「純粋経験」の内容が異なると考えるのです
人間の「純粋経験」とゾウリムシの「純粋経験」は違うと思うのです
人間が見て「あっ!」と思った瞬間と、ゾウリムシのことはよくわかりませんが、ゾウリムシが「○×△?!」と思った瞬間で、「主客合一」の内容は違う様に思うのです
そうすると、他の知的生命体である宇宙人が認識する「純粋経験」と、果ては神(宇宙)が認識する「純粋経験」は異なることが考えられます
結局、究極の完全たる世界認識は神(宇宙)だけができて、完全な「純粋経験」=「主客合一」は神だけができるのかもしれません
これはカントが「物自体*3」には到達できず不可知であると述べたことに通じるものがあるかもしれません
繰り返しますが、私たちも言語等による世界認識を開始する前の「純粋経験」=「主客合一」の状態で世界(宇宙)を認識する時、そのまま世界全体を認識することはできるでしょうが、真の意味で、世界(宇宙)を認識できるのは、やはり、神(宇宙)しかないということなのです
ただし、自分はこう思うのです
「何かは在る」=「存在している」ということについての認識は、生物、他の宇宙人、そして神の区別なしに一致するのではないかと
「在る」という言語を用いるのは人間だけで、ミドリムシや他の宇宙人や神は用いませんが、
「在る」という状態の「事実」認識が生じること自体は共通すると考えるのです
「純粋経験」の後は、各生物という認識主体は持っている知覚認知機能ごとに、世界(宇宙)の認識・解釈を開始し、その形式により各々の解釈情報を世界から引き出し生み出します
世界(宇宙)は任意の形式の情報生成の可能性を内包している全体的存在なのです
(*´-`)💖
*1 西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫1950.1、17頁-27頁、第1編 純粋経験 第1章 純粋経験
*2ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫2003.8、68頁-70頁、四・四六、四・四六一及び(54)、四・四六二、四・四六三、四・四六四
*3 カント 中山元訳『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫 2010.1、45頁、053