『詩のこころを読む』
詩そのものよりも、その詩についてうれしそうに熱をこめて語る著者の文章に、ひどく感動してしまいました。
一編の詩が「すばらしい」ということを、なんて果てしない想像力とうるおいのある言葉で表現してしまうのかしら。
いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。
茨木のり子『詩のこころを読む』(1979年)の書き出しです。
本書を開いて読み始めた瞬間に、何度も読み返した文章です。
詩とはなにか。なぜ人は詩を必要とするのか。
その答えがこの冒頭にぎゅっと凝縮されていて、それでいて難しくない。詩に触れてきた人なら誰もが「あぁ、そうだな」と納得する文章。いくつもの詩を読み、生み出してきた著者だからこそ書ける、世界のことばとしての「いい詩」の定義。
『自分の感受性くらい』や『わたしが一番きれいだったとき』などの名詩を生み出してきた茨木のり子が、自身の「たからもの」としての詩を紹介し、語る本。
「1. 生まれて」「2. 恋唄」「3. 生きるじたばた」「4. 峠」「5. 別れ」といったカテゴリーに分けて、おもに日本の詩をたくさん紹介しています。そう、この目次自体が、まるで生まれてから死ぬまでの人の一生のようになっています。
本書を手に取ったきっかけは、たまたま読んでいたビジネス書の中でおすすめされていたからですが、それ以前に、「私には詩が足りていないんじゃないか」と、無意識に感じていたような気がします。
いいえ、本書を読んでからそのことに気づいたというほうが、正確かもしれない。
こんな本を、私は求めていたに違いありません。
詩人が他の人の詩を語るとき、どんな表現をするんだろう。
そんな興味が第一にありました。
あとはただ、いい詩に出会いたい。そんな思いで本書を手に取りました。
私はある種の希望と高揚感、うれしさと悲しさ、勇気と無力感に苛まれながら、この本を読みました。
紹介されている詩がもつ力に良い意味で翻弄されつつも、それを語る茨木のり子の文章が、あまりに豊かで素晴らしかったからです。
詩をもとに浮かんだイメージを細密に描写したかと思えば、自然という大きな枠組みの中に生きる人間のありようを書いてみたり、思わぬ方向へ寄り道して戻ってきたり、星をむすんで星座を作るように異なる詩どうしをつなげてみたり。
彼女の語る言葉には、世界の端から端までを駆けめぐる想像力があり、湖のほとりのように穏やかに澄んで、おおらかで、はっとする飛躍と矛盾があり、愛があり、ユーモアがあり、知性がありました。
もう文章なんか書くのをやめてしまいたい!
そう思って力が抜けてしまいました。
でも、それは嫉妬とはちがう、心地よくさわやかな脱力感。
誰かが言っていた、人がほっとする場所を作るのがよい文章というのは、こういうことなんだなと思います。
ひとつだけ、本書で挙げられている詩と、著者のことばを紹介しましょう。
かなしみ 谷川俊太郎
あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
詩集『二十億光年の孤独』
私はなぜ生まれてきたんだろう
どこから来たんだろう
この世に生きるかなしみと孤独。
青い空を起点に、澄みきった静かなイメージを広げながら、生まれる前の何もない(はずの)空間を思わせる美しい詩です。
これは谷川俊太郎が10代(!)の頃に書いた詩だといいます。
この詩について、茨木のり子はこんなふうに言っています。
生まれてくるとき、人はどういうところを通ってきたのでしょうか。
「私はどうして今、ここにいるのだろう」
「いったい何をやっているのだろう」
「なんのために生まれてきたのだろう」
思い出せそうで、うまく思い出せない世界。両親がいたから生まれてきたのに間違いはないけれど、もう一つ別の、抽象的なルートに思いを馳せるようになったとき、人は青春の戸口近くに立ったことになるのでしょう。
生まれたことの不思議さを、これから青春を迎えようとする10代の若者が思うとき、行き場のない気持ちを映し出すスクリーンとしてぴったりなのが、青い空だったのかもしれません。
「とんでもないおとし物」とは何だったのかしら? 前生というものがあるなら前生の記憶だったかもしれないし、或いは「はィ」と答えて引きうけた、重大任務の何かだったかもしれません。何か大事なものを忘れているという、この「忘れものの感覚」は、詩の大きなテーマの一つですが、日本語でこれほど澄みきったものとして提出された例は、今までになかったような気がします。
これ以上私の言葉はいらないでしょう。
本書はこんなふうに、いくつもの詩を読み味わうための手助けをしてくれます。読んでいるその間はなんとも至福で、豊かな時間が流れます。
これは本とは関係ありませんが、この前、谷川俊太郎の有名な詩「生きる」を読んでいたら、涙が止まらなくなってしまいました。
生きる 谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
……
この詩に触れるのは、おそらく、小学生の頃に教科書で読んで以来でした。
なぜだかはっきりと分かりませんが、日々の暮らしの繰り返しの中で、感覚が鈍り、生きているという実感から遠ざかっていたからかもしれない。
それはごく当たり前のことなのですが、
あぁ、私の感じている1分1秒は「生きているということ」なんだと、この詩から実感を得たのです。
こんな時代だからこそ、私たちに必要なのは詩なんじゃないかと、心から思います。
言葉が世界をつくっているというのは、決して大袈裟ではない。そこにいい詩があれば、どこへだって飛んでいけることを、忘れているだけで、私たちは本当は知っているはずなのです。
最後に『詩のこころを読む』より、私が本書でもっとも好きな文章を引用して終わります。
この世には面をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。無残に断ちきろう断ちきろうとする強い力がある反面、結ばれよう結ばれようと働く力もまたあるのでした。たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません。
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