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【書評】『君はどう生きるか』「コミュニケーションが得意」とは、だれとでも仲よくなれることではない
ロッシーです。
『君はどう生きるか』(著:鴻上 尚史)を読みました。
あの有名な『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)ではなく、本書のタイトルは、「君は」どう生きるかです。
なぜこのようなタイトルにしたのでしょうか。本書に説明がありますので引用します。
90年近く前に書かれた『君たちはどう生きるか』は、「君たち」と十代全員に呼びかけられる時代だったと思います。でも、今、十代の人たちに向かって、まとめて「君たち」とは呼びかけられない時代になりました。一人一人が本当に違うからです。(中略)だから「君たちはどう生きるか」ではなくて「君はどう生きるか」と問いかける必要が生まれたと僕は思っているのです。これが、最近よく言われる「多様性」ということです。
確かにそうだよな、と思いました。もう複数形で呼びかけられる時代じゃない、改めてそれを痛感しました。
本書のターゲット層は、十代だと思います。私は完全にターゲット層から外れています(笑)。でも、本書のように、若者に何かを伝えようとするジャンルは好きです。それはなぜなのか・・・。思うに、そういう本には共通して「ためらい」があるからだと思うのです。
「こういうことを、これを読んでいるあなたに伝えたい。でも、伝わるかな・・・こういう言い方だったら分かってくれるだろうか・・・?」
若者に何か大事なことを伝えたいと真摯に思う時、人は断定的な口調にはなりません。それはそうですよね。「若いうちにはこれをやっておけ!」みたいなことを断定的に言えるでしょうか?この変化の激しい時代にそんなことを言えるはずがありません。その若者が社会に出るまでの長い時間を考えたら、未来がどうなっているかなんて分かりませんから。
逆に、サラリーマン層相手のビジネス本だと、「こうしないと出世できないぞ!」とか「これを知っておかないとAI時代に取り残される!」「人は〇〇が9割!」とマッチョな言説であふれていることが多いです。面白いですよね。
本書では、終始一貫して「ためらい」ながら、でも大事なことを真面目に伝えようとする著者の姿勢が文章から伝わってきます。つまり誠実なのです。
さて、本書の内容で、特に一番刺さったのは、「コミュニケーションがうまいということ」と題された文章の内容でした。光村図書という会社が出している小学6年生の国語の教科書に、2020年度から2023年度まで掲載されていたとのことです。以下、一部引用します(太字は私がつけました)。
「大切な人と深くつながるために」
あなたが友だちと、いっしょに遊びに行く相談をするとします。本当の気持ちを言わないで周りに合わせているだけなら、あなたはだれとでも仲よくできます。でも、あなたが、本当に行きたい場所、したいことを言い出したら、だれかとぶつかります。
それは悪いことではありません。それは当たり前のことで、それでいいのです。そういうとき、人は、なんとかうまく自分の意見を言って、相手と話し合い、コミュニケーションをしようとします。
さて、あなたは、コミュニケーションが得意ですか。それとも苦手ですか。
「コミュニケーションが得意」とは、だれとでも仲よくなれることだと一般的には思われています。でも、「コミュニケーションが得意」とは、相手ともめてしまったとき、それでも、なんとかやっていける能力があるということです。(~以下略)
この文章を読んで、私はとても腹落ちしました。
よく、「コミュニケーション能力が大事」と会社でも言われます。でも、そのコミュニケーション能力って一体なんなの?とずっとモヤモヤとした気持ちを持っていたのです。
会社で使われる「コミュニケーション能力」というのは、まさに上記の文章における「誰とでも仲よくなれること」という文脈で使われていました。
もちろん、仲よくなることはいいことです。しかし、仲よくなることが目的になってしまい、誰かの意見に対して、それと異なる意見を言うべき場合でも、「嫌われたくない」という気持ちが先立ち、議論が発展しないという弊害があります。
たまに議論になったとしても、「俺の意見に反対しやがった」「あいつは嫌な奴だ!」となってしまい、その後一切口をきかなくなるなんていうケースもあります。普段は仲よくしていてコミュニケーションができていると思っているのかもしれませんが、実態は簡単に壊れてしまう脆い関係なわけです。だとしたら、そういう関係をいくら構築できたとしても、それを「コミュニケーション能力がある」と言って良いのでしょうか?
私は、著者の言う通り、相手ともめてしまったとき、それでも、なんとかやっていける能力があるほうが、より適切な「コミュニケーション能力」の定義なのだと思うのです。つまり、「もっと仲良くしよう」というプラスの方向ではなく、「仲が悪くなったとき」に、そこからまた関係性を構築できる、いうなれば、マイナスからゼロにもってくる方向です。
著者はこうも言っています。
君は、「クラスみんな仲良く」しなくていい。(中略)好きじゃない人とは、仲良くしなくていい。だってできないんだからね。
でもね、「仲良くしなくていい」ことと、「無視していい」ことは別なんだ。(中略)その時、嫌いな人でも、その人の意見をちゃんと聞くことは重要なことなんだ。
どんなに嫌いな相手でも、相手を尊重し、相手の意見を聞く、つまり「協働」することの重要性を述べています。そして、「協働」のために必要なのは「対話」だと言っています。
私自身、仕事をしていて思いますが、日本人が一番足りない能力は、この「対話」をする能力だと思うのです。いきなり日本人と一般化するのも良くないのですが、本当にそう思います。
私達は、みんなそろって出社したり会議をしたりしようとします。とにかく一緒にいることを重視します。お昼ごはんも毎回ゾロゾロ一緒に行き、夜もゾロゾロ一緒に飲み会に行くくらいですからね。
でも、そこに決定的に足りないのは対話です。会話はあっても対話はない。だから、新しい考えが生まれないし、古いままのやり方を変えられない。そういう状態がずっと続いているように思うのです。そして、それが日本の経済的凋落の一因になっているような気がしてならないのです。
「仲良くなること」は本来は会社が達成しようとする目的のための手段であったはずです。しかし、その手段が目的化してしまい、仲良くなるために一緒にいることありきになってしまっている。そんな風に思います。
でも、きっと今の若者が大人になれば、そういうことも徐々に変わっていくんだろうなと思いますし、変わっていってほしいと思っています。
本書は、若者だけが読むのはもったいないです。他にも、色々と「そういう視点があるのか!」と気づかされる部分がありました。
十代の若者も、そうではない人も、ぜひ読んでもらいたいです。おすすめです!
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!