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【書評】大文豪マーク・トウェインの遺言。「人間は機械である」

ロッシーです。

マーク・トウェインの『人間とは何か』を読みました。

マーク・トウェインといえば、『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』がお馴染みですが、本書の存在は知らなかった人も多いのではないでしょうか。

本書は、マーク・トウェインの最晩年の作品で、マーク・トウェインの遺書とも呼ばれています。

しかし、その内容は『トム・ソーヤーの冒険』などの物語とは一線を画しており、1906年に本書が出版された当時は、問題作とされ批判が巻き起こったほどの内容です。

なぜか?

それは本書が

「人間は単なる機械だ」

ということを述べた本だからです。

いったいどういうことでしょうか?

本書の主張をざっくりまとめると以下のような内容になります。

  • 人間は「自分自身の精神を満足させたい」という衝動にしたがって動く機械である

  • 人間は持って生まれた気質や環境に左右されて生きているだけ

  • 人間に自由意志はない

要するに、一言で言ってしまうと

「人間とは生まれ持った気質をベースとして、外部からの影響に基づき、自己満足という目的のために動くマシーンである。」

ということです。

さて、いかがでしょうか?

ほとんどの人は、「いや、そんなことはない!」と思ったのではないでしょうか。

本書では、そのような「人間機械論」を主張する老人(≒マーク・トウェイン)と、それに反対する若者が対話をする形式となっています。


さて、本書を読み進めていくと、あら不思議。

最初は若者と同じ考えだったのにもかかわらず、だんだんと

「待てよ・・・この老人の言っていることのほうが正しいかもしれない。」

と思うようになっていくのです。

詳しくは、ぜひ本書を読んでみてください。ボリュームも多くありませんので手軽に読めると思います。

マーク・トウェインは本書の冒頭でこう言っています。

今でも確信しております。この論文にかかれていることは、やはり真実なのだと。

論文というのは、本書のことだと思ってください。大文豪マーク・トウェインは、長い年月にわたり、「人間機械論」を何度も検討し、推敲しましたが、それでもその結論を否定できなかったのです。

これが当時の人達に与えたインパクトは相当なものだったと想像できます。

私たちは、まだChatGPTに代表される生成AIの時代を生きていますから、人間機械論に対する免疫はそれなりにあると思います。

そして、様々な研究により、人間に自由意志があるのかどうかについての知見が得られています。

ご存知の方もいるかと思いますが、私達が何かをしようと決定する前に、脳はすでにその行動を決めてしまっているという研究結果もあります。

もちろん、まだ確定的なことが言える状況ではありませんが、マーク・トウェインが主張する「人間機械論」が、徐々にその正しさを証明していく方向に向かっているのかもしれません。

今からざっと120年以上も前に、このような考えに到達していたマーク・トウェインの慧眼にはあらためて驚かされますね。


さて、仮に私達人間が機械だとしたらどうなるのでしょう。

それは人間としての尊厳を打ち砕かれる不幸な結論なのでしょうか。

私はそうは思いません。

どちらの結論になっても、私たちの生き方が大きく変わるわけではないと思います。

ただ、人間に対しての見方は大きく変わると思います。

例えば、これまでの見方であれば、成功した人間は努力をしたからであり、「もっと努力すればあなたも成功できる!」という言説が主流でした。

しかし、「人間機械論」に基づけば、努力をすることが自己満足につながる人は努力できるけれども、そうではない人にとっては努力は継続できないという結論になります。

つまり、ある人が成功したのは、その人の生まれもった気質や外部環境のせいであり、本人の自由意志に基づく努力で成功を勝ち取ったことにはならないわけです。逆にいえば、成功していない人に対しても同様のことがいえます。

また、例えばうつ病になった人がいたとします。その人が精神的に弱いからだ、とか、頑張りが足りないからだ、という問題ではなく、機械として壊れてしまっただけ、と捉えることになります。


こういった見方のほうが実態に即しているのかもしれません。

勉強、ダイエット、筋トレ、英会話・・・さまざまなことについて、「努力すればできる!」という言説が溢れています。しかし、現実はそうではありません。

「頭ではわかっていても、その努力ができない・・・」

人間機械論によれば、それは当然のことなのです。ある努力を継続できるためには、それにより自分が精神的に満足することが必須だからです。

ケーキを食べたほうが、食べるのを我慢するよりも圧倒的に満足するのなら、ケーキを我慢することができないのは当たり前、ということになります。

「人間機械論」は「人間は自由意志の力でなんでもできる」というある種の残酷な根性論には与しません。

そして、「人は機械としてそれぞれ性能が違うのだ」という至極当たりまえの見方をすることになります。


さて、このような見方で人間を新たに捉え直すとどうなるのでしょうか?

「各人が最も自己満足することを追求したほうが良い」

という結論になるでしょう。そのほうが、「やればできる!」というお題目で、自己満足につながらない活動をイヤイヤさせ続けるよりも、よほど社会の発展に貢献するように思います。

ブルシット・ジョブという言葉がありますが、客観的にそのような仕事があるわけではないと思います。

たとえどんなに社会的意義がある仕事であっても、その人の自己満足につながらない労働であれば、全てブルシット・ジョブなのではないでしょうか。

私たちが機械なのであれば、その特性にあった合った仕事をしたほうがよいわけです。

これまでの社会では、そういったことには無関心で、「誰でもとにかくやればできる」方式の見方が主流でしたし、それで社会はうまくいってきたのかもしれません。しかし、今後もそのままでいいのでしょうか?

私は、いまこそマーク・トウェインの遺言に耳を傾け、人間に対する見方を変えるいい機会なのではと思います。


動物も人間も、生命はそれ自体が複雑な機械です。AIだって機械です。みんなその意味では同じであり、機能レベルに程度の差はあっても本質的な違いはない。

まさに万物皆同ですね。


この世界を、人間とそれ以外の存在という風に分けてしまう。
そして、人間を心と身体という風に分けてしまう。

そういったデカルト的な二元論よりは、よほど自然な考え方だと思います。

機械なら機械で、私たちは人生を楽しめばいいのではないでしょうか。

本書を読むことで、これまで持っていた人生の捉え方が変わる人が多いと思います。

逆に、「人間が機械なわけないだろ!」と思う人にもぜひ読んでいただきたいです。老人の説得力にどこまで対抗できるか、ぜひチャレンジしてみてください!


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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