死とは何か
あまり考えたくないテーマではあるが、死とはなんだろうか。
私はふとそれについて考えることがある。
お風呂でシャワーを浴びながら目を瞑っている時。
布団に入って唐突に不安を覚えた時。
人はよく人生を道に例える。
長い一本道で一生を表し、二股の岐路で未来の選択を示す。
人生を道とするならば、それは生きていること、つまり生そのものであると言える。
ではその場合の死とはなんだろうか。
死のイメージとは何か。
道の終点にあるものか。
空から降ってくるものか。
道に仕掛けられたものか。
もし道の終点にあるとするなら、人は皆、死に向かって歩いていることになる。確かに、そのように言われることはよくあるが、それはあまりにも風情がない。
それに奇跡的に死を免れた人をどう説明する。
植物状態からの目覚め。
余命宣告の克服。
危篤状態から峠を越える。
どのような場合にしても、終点に限りなく近づいたはずなのに遠ざかったことになる。
もし終点を超えたのならその人は死なないということになってしまう。終点でなかったとするならば、そもそも矛盾してしまう。
では、空から降ってくるとしたらどうか。
死は突然やってくるという。
道を歩く人にとって空から降ってくるものなど予想外でしかない。そういう意味ではとても近いかもしれない。
しかし、こちらの場合にも死を免れた人の説明が難しい。
もし降ってきた死を避けた、あるいは防いだとするなら、死にはサイズが存在して大きさによってはそれを可能にするのかもしれない。だが、死はいくつも降ってくることが前提になってしまうし、降ってきた後その残骸はどうなるのかが気になる。
避けても防いでも爪痕を残すのだとしたら、交通事故でギリギリ助かって無傷でも、生そのものはなんらかのダメージを受けたことになってしまう。
だとすると、道に仕掛けられていたのか。
それはもはや罠であり、随分陰湿な設定だ。
神が仕掛けたのだとしたら、人生ゲームで遊ばれるコマの気分になる。
それはさておき、地面に埋められているのだとしたら、それに気づけば回避できることになる。
例えば、健康診断や人間ドックで重大な病気にかからないように健康を保つのはこれに近いかもしれない。
しかしそれが当てはまるのは死因が病気の場合のみである。
交通事故は確かに普段から気をつけていればある程度はなんとかできるかもしれないが、異常なドライバーだけは防ぎようがない。
それに埋められた死を回避するということはやはり、前述同様に死は複数あることになる。
では、死とはなにか。
私の答えは、後ろから追いかけてくるものだ。
恐怖以外の何者でもないが、道を歩いている限り常に後ろにいる。
だが、だからこそ、それを意識できる人間は走り続けようと努力できるし、回避することはできなくとも距離を取ることはできる。
つまり、いつも全力投球で頑張っている人は少なからず死の存在を意識し、今と未来を重要視しているが故に走り続けようとしている。
また、健康を気遣って人間ドックを受けるのは後ろから迫る死の存在を意識し始めたとも言える。
先ほどの死を免れた人の場合は、実際には免れたのではなく、追いつかれる寸前で走って距離を取ることができたと考えられる。つまり、死の必然は消えていない。
死は常に一定のゆっくりとしたスピードで進んでいる。
人によってその邂逅が違うのは死のスピードの違いではなく、その人の歩く速さの違いである。
では、なぜ優秀な人ほど早死にする傾向があるのか。
全く別の理論で、人間の一生で消費されるカロリーは決まっており、脳をフル活用することでそれを早く使い切ってしまうために早死にする、というものもある。
だが、この道に例える理論でいくならば、早く走りすぎただけのだ。
ペース配分を間違えて、息切れして立ち止まったところに重なった。
全力で走りすぎてつまずいて転んだところに追いついた。
何にせよ、人生が一本道である以上どんなに分岐した未来を選んでも後ろに迫る死からは逃れられない。
だからこそ走り続けなければならない。ただ走るだけではいけない。走りを楽しむ心も必要だ。
時に振り返って休憩し、距離を取り、追いつかれるまでの時間を計算し、ペースをとりながら走る。
まるでマラソンのように。
そのためには人生の逆算思考と効率的な生き方、そして今と未来を大事にすること。こうした姿勢が欠かせなくなってくる。
そういう人に私もなりたい。