「花束みたいな恋をした」と「ドライフラワー」における、花と恋と20代。
映画「花束みたいな恋をした」を観た。
タイトルが"花束"なので、花束そのものがこの物語のキーとなるのかと思いきや、相手に花束どうぞするシーンなど全く出てこなかった。もちろん、卒業式にサプライズで花束を渡す所をTikTokに載せるシーンもなければ、真っ赤なバラの花束100本でプロポーズするシーンもない。
だからこの映画は、観た人に、この恋がどう「花束みたい」なのかを考えさせる作品なのだと勝手に受け取って、私の映画評論を残す。
"花"と言えば、最近耳について離れない曲がある。
優里の「ドライフラワー」だ。ビルボード・ジャパンが先日、サブスクの総再生回数が1億回に到達したと発表していた曲だ。
お馴染みのサビの部分である。別れた後を歌った曲だ。それなのに、"嫌いじゃないの"の言葉がこんなにも馴染む。これは映画「花束みたいな恋をした」においても同様であり、麦と絹もお互い"嫌いじゃないの"に、最後は別れを選んだ。このかんじが、20代の恋愛が10代の頃とは違うと感じさせられる要因のひとつなんじゃないかと思う。
20代の恋愛って、ふと気が付くと「相手を好きだ」という、ただ単純でまっすぐな気持ちの優先順位が下がってしまっていることがある。「好き」のあとに、「だけど」がくっついてくるからだ。好きだけど、価値観合わないんだよね。好きだけど、収入がなぁ。好きだけど、食の趣味合わないんだよね。好きだけど、結婚ってなるとなぁ。好きだけど。
だけど。
学生の頃の恋愛って、一番最初に当たり前のように「好き」が来た。なんなら平気で「ずっと好きだよ」とか「結婚したいね」とか確約できないことでも簡単に言えた。しかもその当時は、本気でそう思っていたりもした。でも、実際に社会に出て、結婚とか、この先の人生とか考え出したら、今が楽しければいいなんて簡単なものでもなくなっていくことを自覚する。恋愛するたびに「デートは楽しいけど、この人結婚したら家事やらなさそう」だとか、そんなただの憶測が、「好き」を簡単に超えていく。
「花束みたいな恋をした」も「ドライフラワー」も、いくつもの季節を共にした2人が別れてしまう作品だ。どちらも説明するまでもなく、もう既に広く知れ渡り、多くのレビューがあがっているのであらすじは言うまでもない。ただ、大好きだった2人が、好きだけど、だけど、だけど、だけどが積み重なって別れてしまう作品である。
ドライフラワーは、優里「かくれんぼ」のアンサーソングとして有名だ。その「かくれんぼ」の歌詞もまた「花束みたいな恋をした」の、段々と折り合いが悪くなっていく2人を模倣している。
あんなに仲の良かった2人が、口を開けば喧嘩になり、好きだけで整っていた世界から追放されていく。イラストで食べていけたらいいなという夢を抱いていた麦の仕事道具も、今村夏子のピクニックも、部屋の隅で寂しそうな顔をしてる。
それが積もり積もり、積み重なって、あんなに同じ音楽を聴いて心が躍り、あんなに同じ本の同じシーンで涙して、あんなに同じ焼きそばパンをおいしいと頬張ったのに、それなのに、君からはもう僕を感じなくなるんだよな。「今が絶頂、俺の夢は絹ちゃんとずっと一緒にいること。その生活を守るための仕事だよ。」と言って始めた仕事なのに、守りたかった生活は、簡単に忙殺されてしまう。
そして、2人は、別れを選ぶ。
好き、だけど、別れを選ぶ。
この2つの作品から言えることは「花束は、もらった瞬間が最高潮で、そこからは、いくら丁寧に水をとりかえても、その一番いい状態は絶対に保てなくて、放置して枯らすことも、水を与えすぎて朽ちさせてしまうこともあるけれど、ドライフラワーという形にすることもできる。」ということだ。
できるだけ丁寧に丁寧にドライフラワーにして、また違う形で飾ることができたのが「花束みたいな恋をした」で描かれた恋愛であり、捨てることも枯らすこともできないからドライフラワーにせざるをえないでいるのが「ドライフラワー」の恋愛だ。ここがこの2つの作品の唯一異なる点である。
花束みたいな恋をした2人は、お互いに受け取った美しい花束を、ちゃんとドライフラワーにできた。
優里のドライフラワーは、ドライフラワーにする手前の段階で、本当にこの花から水分を抜いてしまっていいんだろうか、もう少し生花の姿を楽しめるんじゃないかって、まだモヤモヤしている段階なんだと思う。
この歌詞の最後がそれを物語っている。
この、確実に好きだけど大嫌いだと言い聞かせてしまうかんじや、相手にも、まだ自分のことを想っていてほしいと願ってしまう心情が絶妙にそれだ。
映画の麦と絹はというと、別れた後の2020年の世界線で
♪あんなに悲しい別れでも
時間がたてば忘れてく
新しい人と並ぶ君は
『ちゃんとうまくやれていた』
本作が描こうとしているのは、20代の恋愛が急に現実に淘汰され、感性がすり減っていくという所ではない。その過程で経験できる恋が、「好き」だけじゃどうにもならないことがあるとわかった恋が、後に経験する、本当の意味での「愛する」を学ぶのに必要な肥料になる、ということではないだろうか。
きっとその通過儀礼をきちんと経た2人だからこそ、次に進んだ時にはちゃんと、花はどうやったって生花のままではいられないということを理解して恋愛ができる。
そして、その上で枯れそうな花束も、きちんと風を通してやって、水を抜くことができたなら、最初みたいに香ることはなくとも、その美しさを新しい形で保ち続けることができる。ドライフラワーになった花には、もうこまめに栄養をやることもないし、水を取り替えることもない。だけど、それでもいつまでも同じ場所で形を変えずにいてくれる。それってまるで、家族みたいだよね。
「この花きれいだからさ、ドライフラワーにしない?」そうやって2人で一緒に決めて、一番きれいなタイミングで水を抜いてあげるのって、ちょっと、怖いし緊張する。だけど、でも2人で決めたことだし、その先の完成品も楽しみだし、きれいなドライフラワーを作るコツって、一番きれいなときに水を抜いてあげることだもんね。きれいなドライフラワーにするには、そっか、いつの間にかとか、仕方なしとかじゃなくて、2人で決めて一緒にドライフラワーにしたいと思えることが大切なんだ。そう考えると、麦と絹のドライフラワーは、ドライフラワーにすることはできたけれど、きっと少し不恰好なものなのかもしれないな。
そうやって私たちは、花束みたいな恋をして、その花束はそのままじゃいられないことを知って、きれいにドライフラワーにするにはどうしたらいいのか考えて、そうやって、納得のいくドライフラワーを、一緒に作っていける人を、愛しいと感じていくのかもしれない。生花の美しさも、ドライフラワーの美しさも、両方共に楽しめる相手との日々を、幸せに感じるのかもしれない。
花は儚くて脆くて強い。
生身の植物だからこそ、永遠にするには一筋縄にはいかない。そりゃあ作りながら「だけど」が増えるのも当然だ。美しくて可憐で、その状態を保とうと必死に陽の光を当てたって、それが逆効果になってしまう時だってあって、本当にいつだって難しい。説明書くらい付けといてくれよって、思う時もある。
「だけど」
花束も恋も、そこにあるだけで日常が輝いてみえる。
花束も恋も、心に安らぎを与えてくれる。
花束も恋も、ほんとうに愛おしい。
映画「花束みたいな恋をした」優里「ドライフラワー」
同時期に大ヒットしたこの作品の、主人公である麦と絹、優里、そして私も、みんな26歳なんだ。
まだまだ、それぞれの20代は続くんだよな。
まだ失敗したりうまくいかないことも沢山あるのだろうけれど、そんな日々を越えて、いつか、完成したものをそっと飾る時がくるといい。そうしたら、それぞれのドライフラワーを見てみたいなぁと思う。果たしてどんな色で、どんな花を選んで、部屋のどんな場所に飾るのだろうか。そんな時が来るのならばどうか、私のドライフラワーも、さりげなくとも優しく部屋を彩る、そんな花であると良い。