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小説は視点が九割

いつもお世話になっています。作家の浜口倫太郎(@rinntarou_hama)です。

小説の表現として、『視点』というのがあります。簡単にいうと、『どこにカメラ』を置くかですね。

一人称ならば主人公の目がカメラとなるイメージですね。三人称ならば主人公の後頭部の斜め上あたりにカメラを位置し、神視点ならばカメラがロングにあるっていう感じでしょうか。しかもドローンのように自由自在に動きます。

どのキャラクターにカメラを据えるかで、物語の見方も変わってしまいます。

たとえばある中年男性がバナナの皮ですべって転んだとしましょう。そして別のキャラがそれを目撃した。登場人物は二人です。

目撃者視点だと

喜劇になります。

いきなりおっさんがつるっと豪快にすべったんですからね。

ところが男性視点だと

悲劇です。


意気揚々と歩いていたら、突然転んで背中を地面に激しく打ちつけました。想像するだけで痛そうです。

同じ出来事でも、視点によってストーリーの種類自体が変わってしまうんです。

特に映像表現と違い、小説はキャラの感情を書き込めます。

転んだ男性視点の時だと「痛ったぁ、あかん、あかんしゃれならん。骨折ってないよな。それはないよな。あざいや、せめて打撲ですんでくれ。
でもどんどん痛なってやん……」

みたいな感じで感情が書けるので、より悲劇ぶりが伝わってきます。

起きた事象は同じなんですが、視点が違えば読者の受け止め方がごろっと変わるんです。

この前テレビの金曜ロードショーで『22年目の告白』がテレビ放映されました。

曽根崎という連続殺人犯が時効を経て、殺人の手記を出版。そこから起こる騒動を描いています。

映画を見てくださった方ならばわかるんですが、曽根崎視点ではこの小説は書けません。

曽根崎視点で書いてしまうと、曽根崎の感情を書かなければならないからです。それではこのストーリーは成立しないんですよね。

『曽根崎はなぜ殺人本を出版したのか』という謎がキーポイントになっているからです。

曽根崎に視点を与えると、その謎がすぐにあきらかになります。

もちろんそれをうまく隠してストーリーを運ぶ手法もあります。感情部分を書かないとか、肝心な部分を描写しないとかですね。でもそれだと物語の面白さが激減する気がしました。

そこで僕は、殺人の手記を編集した女性編集者に視点を与えました。彼女のカメラを通して、小説のストーリーを運んでいったんですね。

この女性編集者は極めて読者に近い視点です。だから彼女の驚きや衝撃は、読者の驚きや衝撃となって、ダイレクトに伝わりやすいんです。

ミステリーではこういう手はよく使います。名探偵と助手という設定では、だいたい助手の視点で物語が展開しますよね。

ホームズもワトソンの手記という形をとっています。つまりワトソンの視点でストーリーが進むんですね。

名探偵の視点で描いてしまうと、もう物語の中盤ぐらいで犯人やトリックが判明してしまうからです。これだとストーリーの面白さが半減するのがわかりますよね。

ホームズも最後の最後までワトソンに隠してからネタバラシするじゃないですか。

あと名探偵ってたいてい変人ですよね。

変人の条件として、『自分が変なことをわかっていない』というのがあります。だから変人の視点で書いても、あんまり面白くならないんですよ。

だから変人のそばに常識人を配置して、その視点から物語を進めるんです。そうするとキャラクターがより際立つんですね。

今noteで連載している『むかしむかしの宇宙人』もこの手法です。

宇宙人と名乗るあきらかに変なバシャリのそばに、常識人である幸子を配置しています。

バシャリの変人ぶりに対抗するために、幸子は頭が非常に固いというキャラ設定にしています。

漫才でいうとボケとツッコミでしょうか。ツッコミに視点を与えると、キャラが際立って魅力がより読者に伝わります。

視点の効果が理解できてくると、複数視点でも小説を書けるようになります。

いろんな視点でストーリーが展開するのは、小説の魅力の一つでもあります。

Aブロックの視点は○○で、Bブロックの視点は××。△△が犯人だけどCブロックでは彼に視点を与えて、ダブルミーニングでミスリードさせて……という感じで、視点を切り替えた複雑な構成の作品も書けるようになります。

小説は視点が9割というのはあながち言い過ぎではないかもしれないですね。



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