輪進合氣塾ホームページ ここに最新の稽古予定など置いてあります。 合気道重富道場Instagramのリンクです。 https://www.instagram.com/aikido.shigetomi.dojo 稽古の様子を確認できます。
稽古メンバーが安定してきつつある そのためか 技を習得する順番が 最近ようやく整理できてきた 現在は ① 剛1 ② 円相の腕 ③ 剛3 の順番に稽古を進めている 剛1と剛3の間には 剛1では 身体操作と△◯▢が同期(一致)する 剛3では 身体操作と△◯▢が非同期(自然発生)する という 技術的な乖離がある そのため なかなか剛1から剛3を理解し習得することが難しい そこで 剛1と剛3の間に「円相の腕」を配置した 円相の腕は 剛1の方法の応用であり 剛3と△◯▢
合気道の稽古の中で 剣の素振りを行う 素振りだけでは一人で行うので 良し悪しを測ることが難しい 測るためには 対象を置く必要がある その素振りの良し悪しを測るのに 相手に木刀の柄頭を止めてもらい 木刀を振り下ろす 振り下ろしたとき 相手が崩れるかどうか 崩れたとき どのように崩れるか観察する 例として下記の動画のように確認する 相手の崩れ方を観察し 自身の丹田の状態を客観的に知ることができる この動画の例では 相手は 腰が崩れ 距離が離れている よって この木
合気道にて 技をかけるとき 丹田は必須となる 丹田は 自身の内側にある なぜ 外側を変えるために 内側の丹田を作っていくことが 必要なのか 丹田を作るということは どういうことなのか 理由を考える 自我(エゴ)により 自身の結果である外のもの(現実)を変えようとすると 陰陽の法則の働きで 永遠に陰と陽の分割が続き 外に出れなくなる 外に氣を向けている限り 絶えることなく同じことを繰り返す 陰陽の振り子は 外に氣が囚われていると より振り幅を増していく 振り幅
△◯▢は稽古の中で おおよそ下のように説明している 1.△◯▢は関係 △:対立 ◯:無関係 ▢:一体 2.自身(相手)の状態 △:力んでいる ◯:氣が抜けている ▢:氣が入っている 上の2つの説明が別々のようにみえるが 対象が異なるだけで同じものである 対象を入れると 1.△◯▢は関係 △:自分と相手が対立している ◯:自分と相手が無関係である ▢:自分と相手が一体となっている 2.自分(相手)の状態 △:自分が周囲に対して力んでいる ◯:自分が周囲に対して氣が抜け
合気道の稽古では 型の形をを繰り返す なぜ同じ形を繰り返すのか 一般的に 型を繰り返し行うことで ・スムーズに体を使うこと ・無駄な動きを削っていくこと ・意識せずに体を動かせるようになること 体は繰り返し同じ動きをすることで 力み無く、体が動きを行えるようになる を目的としているが この段階より上を目指したい さらなる目的としては 身体の動作そのものの質を向上させることで 身体を動かすことが即技となること 型はただの箱であり それ自体は技ではない 例えば 小手返
技がかかったとき(▢) 何も感じない 技がかかっていないとき(△・◯) 相手の抵抗や外れていることを感じる 技がかかったとき(▢) 何も感じていないとき 何も無いかのように感じてしまう しかし 実際は逆である 何も感じていないとき 全てが満たされている 満たされているので 何も感じない 満たされていないときに 外の感覚としては変化として現れる だから 有るかのように感じる 外側(現実)と内側(心)は 状態は一致している(鏡の法則) が 感覚の上では反転して観える
技を身体の動きで実行しようとしても 技(▢)にはならない 理由は 身体の動きに意識が囚われているため 身体の動きで技が発生するのではなく 意識を制限しつつ身体を使うと技(▢)になる 方法は 意識配置により区別される 自分の身体操作に意識が囚われてしまうと どの方法でも「▢」はできなくなる 技をかけるとき操作するのは 身体ではなく意識 意識(内側)が原因で 身体(外側)は結果 普通は 身体の動し方で技ができていると 考えている 技がかかったときの原因を 身体の動
気がつくだけでいい 気がつくだけで変化が始まる 慌てることも急ぐことも必要はない 気がついたときから 分離と統合が始まる 気がついただけて その中に異物感が生じてくる それで十分 それは勝手に起こるので ほっとけばいい 勝手に変化していく 稽古はなにかを身につけることでなく 気がつけばそれでいい そうすると 同じ行動(型)の中で違和感が生じてくる その違和感を大切にする ただそれだけで変化していく 努力は不要
手放すと手に入る 執着すると手から離れていく ・手に入れよう ・執着 ・保持しよう とすると 離れてしまう 自ら(みずから)手を離すと それは 自ら(おのずから)自身の一部となり一体化する △◯▢の順に 自身の空間と時間が拡がっていく これは植芝翁の道文にも記されている 有に対し 自身の思考とは逆のことが起こる 無に対し 思い決断すると産まれる 内に氣を向け続けること 次に 外へ氣を放つこと 形になったら それに氣を止めず また 内に氣を向けること この繰り返
体力を必要としない力が身に付いてくると 体力とは別の部分が変化してくるのを感じる 自然体が身に付いてくる 自然体とはなにか 稽古が進むたびに 必要な言葉が変化していく 言葉は具体から抽象へ変化していく 理屈などでは説明できない 自分の体だけが知っている感覚ができてくる 言葉にできることは 理解しているほんの一部分にすぎない 理解しているのは 実際のほんの一部分にすぎない 実際の動きで認知できるのは ほんの一部にすぎない 稽古を進めていくと 自我と本来の自分との理
呼吸力は相対力である 絶対的な力ではない よって その力を物理的な指標で測定することに意味はない 接触している感覚は強くも柔らかくもなる しかし その強さとは一切関係がない 人は 変化するものに敏感であるが 変化しないものには鈍感である その力の威力に スピードや筋力は必要ない
情報を与えない ということ 技をかけるには 相手に対し 情報を与えているのか(△) 情報を与えていないのか(▢) を観ておくことは重要である 人の感覚は 変化する:見える(△) 変化しない:見えない(▢) というふうに感じている 面白い点は その度合いではなく 変化しか見えていない ということ 例をあげると 目にうつるもの(視覚) 通勤している風景でも いつもあるものに対しては 何も気にせず通り過ぎてしまうが ちょっと家が壊れたり 工事していたり なにもなくなってい
外のものを欲しがると 陰か陽に関わらず その逆となる陰と陽に振られる作用により 相殺され0に戻っていく このとき 自我により プラスにこだわると プラスに大きく振れた分 マイナスがさらに大きく振られてしまう そして ゼロに戻ろうとするが 大きくプラスに振れていると 大きくマイナスへ力が働く プラスに戻るとき ゼロの位置で慣性力が働き またプラスに振られてしまう これを繰り返す この調子では いつまでたっても 真ん中に安定することができない よって 陰陽の法則を 上手に
合気道の稽古で技をかけるとき 力は必要ない 理由は 現実が心の投影であること を利用しているため 現実は 字のとおり 実の現れであるので 実ではない 実ではないということは 現実は虚となる 現実は外の現象であるので 内の現象は心となる ということは 心が実となる 力を入れるというのは 現実であり外の現象 本当は 内である心の中で力み(対立)が生じている その結果 外の現実で力をいれることにより 同じように対立が起こっている 合気道に限ったことではないが、 道と
ふつうは 稽古で 自分の思った通りに 相手を動かしたとき(相手を投げたとき) 技がかかった と判断している 逆に 自分の思った通り 相手を動かせなかったとき(相手に止められたとき) 技がかからなかった と判断している しかし 本当は 常に技がかかっているし 自分が思う思わないに関わらず 周りに対して 常に技をかけている 常に 技を起こし 技はかかっている のみ起こっている 技がかかっている 技がかかっていない と判断しているのは 自身の思考によって 創り出した