<短歌は、我々が”世界”の住人だという事を思い出させてくれる>
いつも我々は”社会”で効率的なこと、おかねが儲かること、一般常識的にすべしと要請されていることを粛々と履行している。
ビジネス文書の作り方、電話の掛け方、飲み会の作法、一般常識、タクシーの上座下座、、、
そうやって訓練されていくうちに我々は社会で必要な能力以外をだんだんとスリープモードにしていく。
その方が効率的で合理的だから。能力の最適化だ。
その段階で役に立つもの/役に立たないもの という世界と社会の分断が起こる。役に立つもの、効率のいいものだけどんどん社会が取り込む。
本の言葉を借りれば、突然同僚が「ちょうちょのまばたきを探してきます」とか言って放浪しはじめたら困っちゃうわけ。午後もミーティングあるし。ビジネス文書に「これ、いとおかし」とか書かれたら、それはもうわからない。含蓄がありすぎて汲み取れない。
でも、我々って合理社会に属する、前提に世界の住人だった。価値のあるなしにかかわらず、掛け値なしに繋がっていたはず。
(世界・社会)
それなのに社会という規範の要請が強くなればなるほど、参加資格が厳格になればなるほど、意味の弱い物、価値の薄い物、弱い者、即効性のないものたちは”我々”の外に置かれていく。
なぜならこれらは非効率的なこと、おかねが儲からないこと、一般常識的にすべきでないしとされていること、だから。
こうやってどんどん合意形成がされていって社会の「みんな」が住みやすい、効率的な社会が造られていく。
ふとした瞬間に見上げた雲・・・無意味/道端でかえるをひろった・・・無意味/久々に墓参りをした・・・無意味/あえて手紙をしたためてみた・・・無意味・・・
そんな効率規範の中で生きていくと、たぶん途中で、うまく軌道に乗ってきたくらいで分からなくなってくる。
自分が何をやってるかという事が。
効率的に社会で過ごすことには長けたけど、”世界”が見えない。
損得勘定以外で関係性を切り盛りできない。刹那的な美感覚に触れられない。人間が出来上がる。
穂村: この「奇数本入りのパックが並んでる鳥手羽先の奇数奇数奇数」(田中有芽子)という短歌。
スーパーに行ったら、手羽先が売られていて、パックされている手羽先が全部、奇数だったと。これは最初僕は意味がわかんなかった。でも、なんかすごい怖いなと思った。なんで奇数が怖いのか。それは生きてる時の鳥の羽が偶数だから。生きてる時は「2」なんだよね。つまり「3」でパックされるってことは、1匹半ってことなんだよね。で「一匹半だろうか、二匹半だろうか、死んでるんだから関係ないじゃん」っていうのが人間の側の言い分で、もちろんそうだよね。社会の中では手羽先は人間の餌だから。3や5で、何の問題もない。でも我々は、まだかすかに世界というものを知ってるから。あいつらの羽根は2だよなって。生きてるときの鳥の尊厳ってものを、どこかで感じるんだよね。
世界の分断は今後もすごいスピードで続いて行くのでしょう。
でも「まじでいいんだっけ」という気持ちは常に持っていたいです。
参考文献