憧れがただの思い出になってよかった
学生の頃のわたしは、目に見えないなにかに憧れをもっていた。
周りに合わせて地元大学のみんなと同じ学科に行くのだけはなんだか嫌で、浪人したとき毎日無駄に持ち歩いていた『海辺のカフカ』。
※無駄に、の意味はのちにわかると思う。
一風変わった、けれど私にとっては一種の憧れだった予備校の先生がいう。「村上春樹の『海辺のカフカ』を持ち歩いてね、透明のキャリングケースかなんかに入れて、電車でさっと出して読むわけ。1ページだけでもいいの。読めなくてもいいの、それを持っているだけでね、お、こいつは…!と思われるからね。」
すぐ実行した。なんて素直すぎる学生だろう(苦笑)
透明のキャリングケースは青みがかっていて、それだけが心配だった。
気づいてもらえるのだろうか…原色じゃないけど、、って。
今思えばどうでもいい。
でも当時、自分なりに考えた。「もし周りに見せつけてステータスを感じて、その優越感なるものを楽しんでみなさい」というのが先生の示唆することだとしたら、そこまで外れてはいない。
表紙の白が淡い水色に見えていても問題なかろう、と思った。
「ん・・・?あれは、海辺のカフカ・・・だよな?」と気づかれるのも面白いさ、と。(誰に?という感じだけれども笑)
結局、『海辺のカフカ』は大学に進学したばかりのGWに一気読みした。それまでは開いたこともなかった。京王線に乗りながら、笹塚を通り過ぎて下高井戸にたどり着くとき、惜しい気持ちで本を閉じた。
目の前に広がる商店街。景色がいつもより眩しかったことを覚えている。
先生、ありがとう。と思った。
予備校というのは結構ドライなもので、勉強だけをさせてくれる場所だったなと思う。プライベートを感じさせない。教壇から聞こえてくる言葉に、本質はあっても真実味は感じなかった。
おかげで、ほとんどの先生はカリスマ性を発揮していて、私は現代文の先生がぽろっ、ぽろっと落としたヒントをつないで、志望大学も選んだし、結果その大学に進学した。もちろん、合否結果は報告できないままでいた。
あの先生に出逢わなければ、今の私はいないと思うと、本1冊のエピソードよりも思い出すのは「憧れ」そのもの。
どうしたらそんな発想になれるんだろう、と授業を受けた日はドキドキしながら自習した。
媚びず、固執せず、貫く信念は、なんのためか。だれのためか。
あーおもしろい先生だった。
海辺のカフカを思い出すと先生を思い出す。
大学時代を思い出すと、海辺のカフカと先生の言葉を思い出す。
憧れて追いかけ続けて、ただの思い出になって、ほんとによかった。
アロハシャツで過激な授業をしていたその先生が「自宅のリビングでお酒を飲みながら、目の前に座る子供の話をニコニコしながら聞いている」なんてことがもしもあって、もしも当時の私がそれを知ってしまっていたら、きっとこんなに濃い記憶にはならなかっただろうから。
憧れに余計な色が入らなかったから、いい思い出なんだと思う。