ライオンは獲物を襲う前にストレッチなどしない
~ からだで地球を感じ、宇宙を想う ~
目を開けたままの瞑想を試す
瞑想と聞くと、禅寺の座禅修行のように正座して目を閉じ、無念無想の境地を目指す・・というイメージが浮かびがちです。ですが実践しても、その境地になかなか到達できないもののようです。
遠い昔のことですが、二十歳の頃に1年ほど通った道場(後述)で、その「師」からこう言われたことがありました;
言われた通りにすると、確かに、何か必死に意志的な努力などせずとも、日常感覚の延長のように、「無念無想の境地」的な何かが自然に体感できたのでした。これは、当時の自分にとっては「大きな発見」でした。
聞こえるまま、思うまま、放っておく
目を閉じると、かえって周囲の音が際立って聞こえ始め、さまざまな雑念が心に生じ始めるものです。逆に目を漫然と開けたままにして、平然として周囲の音は聞こえるまま、心の雑念は浮かぶままに「放っておけば」、自然と「ひとときの別の次元の境地」が訪れることもあるのです!
もちろん、持続性はないので、繰り返し試みる必要はあります。
電車の中で体験する格別の心地よさ
通勤通学の少ない時間帯の電車に乗ることがあります。車内の乗客の多くは静かにスマホを見ている、一部で話し声も聞こえてくる、・・座っていると走行音が聞こえ、振動もからだに伝わってくる、・・郊外へ向かっているので色彩豊かな田園風景と晴れ渡った青空が視野に入ってくる、・・・そういう時に、いつのまにか「私が拡がるように無くなって、すべての中に受け入れられている」といった、何か格別な心身の状態になることがあります。
それは一種の「瞑想状態」であるのだ、と私は確信するのです。
ただ、・・
「瞑想」だけをしておけばすべての問題は解決、というわけにはいきません。実人生で起こるさまざまな障害を乗り越えるには、別の思考、別のメソッド、あるいは心技、体術も求めざるをえなくなるのです・・。
以下に、私の場合の具体例を参考までに話しておきます;
言葉のいらない「からだ」を求めて
二十歳の頃から、さまざまな思想や哲学に触れては「言葉で思考する解釈・分析」に依る一方で、もうひとつ、強い興味を抱いた分野がありました。
それは、肉体と心そして宇宙とのつながりを、自分の「からだ」でどう感じるか、言葉だけではとらえきれない「身体論」でした。「健康維持のための心身リフレッシュ体操」ではなく、自分の心と肉体の一体化、宇宙へ結びつく可能性について智恵と技を求めたのです。
そうして現在まで、いろいろな書物や実用書に接しては、その理念と実技を自らのからだで試してきました。目的はただひとつ、可能な限り、言葉に依った解釈・分析ではなく、自分の身体で「宇宙とのつながり」を実感して体得することです。
しかしながら、結果としてやはり、呼吸を整えて瞑想を重んじる気功法や整体あるいは合気道のような心技・体術の分野に偏ってしまいました。
いや、それら以外に、決定的な「答え」を与えてくれるものには出遭えないまま、長い年月が過ぎたのでした。
・・・とは言いつつ、
以下に、自分が本を通して出会った「師」たち、そのさまざまな考え方を示す言葉をほんの少し紹介します。
これら「師」たちの言葉は、日常生活での心がけだけでなく、私の人生観の基本理念、私自身が描きたい「絵」のイメージの方向性を定める大きなヒントにもなっているからです。
坪井繁幸「 直線というものはこの世にない」
Profile:
1985年より坪井香譲として「やわらげの武道」創始師範。∞気流法の会代表として、国内外で活動。師の理念と実践を説いた著作「メビウス身体気流法」他、数冊あり。
直線というものはこの世にない
心は一直線に相手に向かいながらも、行為は曲線を描く。直線というものはこの世にない。どんな精密な機械で線を引いてもそこには微細な凹凸がある。光でさえ宇宙空間で重力によって曲がる。
スパイラルな動き
釘を直に押し込むよりねじ式に入れたほうが入りやすい。身体にとってもスパイラルな動きが多い。この世の現実の存在は、必ず曲線を描き、スピンして存在している。そもそもDNAからして二重ラセン構造になっている。
人体は平面である
つまり、人間は途方もない「皮膚」として宇宙に拡大していたものが、幾重にも折り込まれて封印されたものだ。
*参考本「黄金の瞑想 よみがえる心と体のメッセージ 」 (潮文社リヴ 絶版 )
宇城憲治「頭は邪魔をするが、身体は裏切らない」
Profile:
心道流空手道師範、全日本剣道連盟居合道教士7段。エレクトロニクス分野の開発者・経営者としても国際的に活躍
ライオンは筋トレをしない
ライオンは筋トレをしない。敵を襲う前にストレッチをしない。常に戦える状態にしている。鍛えるべきは腹筋ではなく「腹力」、背筋ではなく「背力」。筋肉だけ鍛える部分体の発想ではなく、呼吸をエネルギーにして統一体を作る発想が基本である。
考えるより先に動いている
頭脳で考えてから行動するでは遅すぎる。身体が感じた瞬間に、身体も動いていることが基本。「危ない」と思った人はその一瞬分だけ動きが遅くなる。身体で感じて行動する人は危ないと思う前に動いている。
言葉では人は変わらない
頭で作った心は、本当の心ではない。言葉では、人は本質的に変わらない。燃えているのに心は穏やか、穏やかなのに身体の反応は驚くほど早いそのエネルギー源が「気」である。
*参考本「宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方」 (草思社文庫)
遠藤 喨及「気の世界では想像することと存在することは同じである」
Profile:
浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、タオサンガ・インターナショナル代表。
心とからだをまるごと含んだ全体
東洋医学では、身体は物ではないし、からだまるごとひとつだから、部分には分かれない。気という、心とからだをまるごと含んだ全体として診る。
特に何も考えず、ツボを身体の一部の点として物理的な力で押すと、患者は不快感を感じるだろう。しかし、全身を包む1点としてイメージしながら
圧すと、気が全体に拡がる快感を覚えるはずである。
意識は限定されたものしか捉えられない
普段から意識できるものは、写真のように、ある瞬間の、ある空間を切り取っただけのもの。意識は限定されたものしか捉えられない。・・・でも現実は、時間も空間も切り取れない。それが「いのち」であり、「気」だ。気の世界においては、想像することと存在することが一致している。
参考本:「気と経絡~癒しの指圧法」 (講談社+α新書)
片山 洋次郎「解釈されない世界と、意味化される世界」
Profile:
気響会整体道場を主宰。「野口整体」の思想をベースにしながら、独自の整体法を創り出す。
世界は2種類
世界は2種類ある。あるがままの世界、解釈されない世界。もうひとつは、観測される世界、解釈され、意味化される世界。
脳は3次元的である
知覚とは、表面を感じたり再構成したりすることである。・・・感覚器官は2次元的なのに対し、脳は3次元的である。脳は脊髄液の中に浮かんでいて、ほぼ無重力の状態に守られている。・・すぐれた表現というものは、2次元的知覚に対して何らかのズレをもたらすものだ。3D立体視やホログラムが「立体感」という興奮や感動を与えるように。
世界との共鳴性
視覚はからだ前方に強く意識を求めるものだが、聴覚はむしろからだの回り全体に意識を拡げようとする。・・人の場合、もともと身体の前方および
上部に意識の場が拡がっているが、身体の周りに万遍なく意識の場が拡がる状態が、最も気分よく安定していて、世界との共鳴性が高い。
*参考本「整体。共鳴から始まる―気ウォッチング」 (ちくま文庫)
以上の「師」たちは、意識と肉体とを不可分の全体性である「身体=からだ」としてとらえることで、人間の身体の可能性を追い求めてきた方々ではと私には思われますが、言葉だけではわかりづらいと思われます・・
そこで、実際に私が体験した例を2つ挙げます;
私の体験1:大の字になって地球の自転を感じる
最初に紹介した坪井香譲氏の「気流法道場」での体感練習に、「大の字になって寝そべる」という試みがあります。
広い運動場の地面に実際に大の字に寝そべってじっとしていると、からだ全体が大地とともに回転しているような感覚が起こります。これは、坪井氏言うところの、「地球の自転を感じている状態」ということになります。
この体感練習法は、たぶん、コンクリート床などの室内では無理で、実際に外に出て、土の地面で行わないと感じ取れないのではと思われます。地上から離れた高層階のマンションなどでは、また別の感覚、どこか宙ぶらりんな不安定感になるかもしれません。
私の体験2 :からだが勝手に動く
坪井氏の上記著作には、氏独自の身体論「気流法」に基づく体の動かし方実践法が何通りか紹介されています。
まだ二十歳そこそこだった私は、一通り実践してみました。すると数日後のことです、いつものように立ち姿勢で一連の気流法の動きを試していると、垂らしていた両腕が「ごく自然に」私の意思とは関係なく動き出し、それと連動したかのようにからだ全体が反応し始めたのです。
やがて、からだの「勝手な動き」は畳の上に大の字に寝そべる状態となり、自分の意志でやめた時にはかなりの時間が経過していました。
この不思議な体験は、自分のからだの歪みや不調部分をからだ自身が自己治癒させているような感じでもありました。当時の私のような若者にはありがちな不摂生な生活と「心のカオス状態」が、からだにも姿勢の歪み、筋肉の無理な緊張、血行の悪さなど悪い影響を与えていたはずで、それらが、一連の動きのおかげでほぐれて気の巡りが一気によくなったのでしょう、・・血流やリンパ、あるいはツボや経絡などの考え方ともつながるものがあるはずだと私は思います。
話をまとめます
若い頃から一貫して私が追求してきたことは、肉体と心そして宇宙とのつながりを、言葉だけでなく、自分の「からだ」で感じ取る方法としての「身体論」でした。自分の心と肉体の一体化、宇宙へ結びつく可能性についての智慧と技を求めてきたのです。
そしてそのことは、私のもうひとつのライフワークである「自分の見たいイメージの具現化された絵を描くこと」とも直接つながっているのです。
最後に、
全く違う分野である作曲家・武満徹のコトバを紹介します:
特にこの最後の一節:
あらゆるものを映しているひとつの言葉、ひとつの音
この地上、あの宇宙、この4畳半の部屋、あの日の思い出、・・などなど、遍在するすべてを映している一つの音を聞いてみたい、すべてを映し込んでいる一枚の絵を見てみたい、それが無いならば、自分で創りたい、のです。