縄に勝つには縄を好きになればいい、誰かがあなたを待っているから
学生時代、名画座(格安で古い映画の再上映をするミニシアター)で、「ローリング・サンダー:Rolling Thunder」というアメリカ映画を見た。当時はB級アクション映画扱いだったが、その後、アメリカ現代映画史を語る上で外せない「カルトムービー」のひとつに挙げる批評家もいた。
映画で描かれた、ずっと耐え続けている寡黙な主人公が、最後に一気にストレスを暴発させたかのように殺戮という復讐を果たして立ち去ってゆく姿に、お国のためでなく、真に自分がやり遂げるべきことを行った、という人間個人の「悲壮で尊い達成感」を、私はその背中に感じ取った。
さて、その主人公が、部下にこう聞かれるシーンがある:
「あなたは捕虜生活中、あの過酷な拷問にどうして耐えられたのですか?」
主人公はこう答える:
「縄に勝つには縄を好きになることだ」
主人公が縄で縛られ殴打される拷問シーンが回想的にフラッシュ挿入される。痛みと恐怖で気が狂い、死に絶えてしまう者もいたはず。でも主人公は、いささかマゾヒスティックではあるが、「繩の痛みがたまらなく好きだ」と思い込むことで必死に耐え生き抜いた、ということであろうか。
私はこの台詞に、戦争という極限状況とは別の、普段の日常生活の中でも当てはまる何か「教訓」めいたものを感じ取り、以下にその点に関連したことを述べてみる:
ふたりの賢人の人生訓
・ストレスの原因
ストレスが生じる原因は、悩み・苦しみ。だったら、悩み・苦しみを持たなければいいでしょう。悩み・苦しみを、どうしたら持たずにいられるか。
「思いどおりにしたい」という思いを持つことをやめること、これだけ。「思いどおりにしたい」と思っているのに、現実がそうならないから、「悩み・苦しみ」になる。それがわかったら、「思いどおりにしたい」という思いを持たなければいい。
人であれ物事であれ、自分が思うとおりであれば受け入れる、好きになる、自分の思うとおりでなければ受け入れない、嫌いになる、という選び方をしている限り、私たちは悩みや苦しみから脱け出すことができないのです。
・すべて「ゼロ」
世の中に起きる現象に「プラス」も「マイナス」もないのです。目の前で起きる現象はすべて「ゼロ」なのです。目の前に怒鳴りたくなるような現象が起きたとして、「怒鳴りたくなった」という意味づけをしているのは自分自身です。「ゼロ」の現象に対して、「怒鳴りたくなった」と色をつけるのも、「うれしくなった」と色をつけるのも自分次第です。
つまり、いま起きている「つらい」出来事も、自分が投げかけた結果であり、自分が意味づけした結果なのかもしれません。
( 小林正観著「悟りは3秒あればいい」より引用 )
以上は、人生訓あるいは処世術として活用できそうな「考え方」であり、その言葉の意味を理解することはさほど難しいことではないが、それを日々の中で体感しつつ実践しつづけるとなると、そう簡単なことではないと思われる。嫌いな人はやはり好きになれないし、思いどおりにならないとやはり思い通りにしたいと苦しむものだろう。
つまり、自分のエゴとわかっていても自分の利己的な思いにどうしても執着してしまうのだ。ましてや、暴力や虐待など肉体的な痛みも伴う場合、「食い込んで痛い縄に勝つには縄の痛みを好きなればいい」など、そんな呑気な助言を苦しんでいる相手にできるはずもなかろう。
そこで、次に紹介したいのは、人生訓や処世術ほどの実用性は無くても、「死と絶望の淵に立たされても夢や希望を持ち続ける」ための、ひとつの「教訓」となるかもしれない考え方である。
何かがあなたを待っている
2013年にNHK・ETVで放送、そのテキスト「100分de名著 ~フランクル 夜と霧 」の表紙に、次のような言葉が記してあり、当時の私は、この本を書店でたまたま目にして思わず購入してしまうほど強く惹かれるものがあった。
何かがあなたを待っている。
誰かがあなたを待っている。
第2次世界大戦のナチスによるユダヤ人強制収容所での体験をもとに、人生に対する独自の観点で思索を深めた精神科医フランクル(ユダヤ系オーストリア人)の名著「夜と霧」を、大学教授の諸富祥彦氏が解説する番組のテキスト。ページを開けば、さらにこんな言葉が目に入ってくる。
どんな時も人生には意味がある
意味のない苦しみはない
それでも人生にイエスと言おう
どこかの宗教家か、流行の「自己啓発本」の中の一説かと勘違いしそうだが、フランクの言葉なら信じることができると思ってしまう。なぜなら、生還率0%に近い「絶滅収容所の極限状態」から人間性を失なうことなく生き延びた人の考えには傾聴すべきものがあると思えるからだ。
フランクルの考え方の根幹を示すエピソード
あまりに過酷な状況ゆえに自殺者の絶えない収容所で、ある時、「もう人生からは何も期待できない」と自殺しようと思いつめた人がフランクルに相談に来ました。彼はこう答えました。
あなたには、あなたのことを待っている誰かが、どこかにいませんか。あるいは、あなたによって実現されることが待たれている何かがありませんか。たとえば、やり残している仕事、あなたがいなければ実現されることのない何かがあるのではありませんか。よく探してみてください。
あなたを必要としている誰かがいるはずです。
あなたを必要としている何かがあるはずです。
筆者の諸富氏は、こう解説されている
人間という存在の本質は、自分ではない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ているところにあります。
フランクルの求めているのは、自分の幸福や自己実現を追い求める「自己中心」の生き方から、「人生からの呼びかけ」に応えていく「意味と使命中心の生き方」へと、生き方を転換することです。
他者からの、あるいは世界からの問いかけに応えようと人が無心に何かに取り組んでいるとき、その結果として、幸福や自己実現は自然に生じてくるものだと、フランクルは考えたのです。
最後に
私自身が、フランクルの味わったような極限状況に置かれたら、「死と絶望の淵に立たされても夢や希望を持ち続ける」ことはまず無理だと思う。
だが、だからこそ、戦禍はなくとも焦燥と不安の陰りの潜む平凡な日常を一瞬だけ突き抜けて、自分の創る作品の中でせめて「何かの想い」を描き込みたいと願うのかもしれない。それは、代償行為に過ぎぬかもしれぬが、そうしなければ生きづらさを感じてしまう人間が、この世には少なからずいると思う( この note にもそう感じる )。
自分の中にあるものしか、相手の中にも見出すことはできないのであるならば、あなたのことを卑怯で冷酷な人、あるいは優しく思いやりがある人だと思うのは、私の中にもそれがあるからだと信じたい。
そう思ったとき、やはり、フランクルの箴言は、この世の呪詛めいた憎悪やエゴの重石をフワッと軽くしてくれるパワーを感じる。
何かがあなたを待っている。
誰かがあなたを待っている。
何と、魅惑的なご神託!
( 私は、こういうコトバに弱い、・・おそらく、自分の中にそういうもの=「人生からの呼びかけ」に応えていく「意味と使命中心の生き方」=が致命的に欠落しているとわかっているから、魅かれるのかもしれない。自分に無いものを欲しいと思うように・・。)