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ヒロシマで受け継がれる血と流れた血のこれから。

 何かを感じて考えてもらえたなら嬉しいし、この話に何も感じないならそれはそれでもいいのです。言うなればどっちも平和。
 今から書くことは誰の口からでも説明できる側面があって、誰一人伝えきれない量の想いがあります。
 ただ、なかなか知ってもらえない事に少しだけ触れてほしい。そんな気持ち。思い付いたままに書くからまとまらないかも。


ヒロシマの8月6日

 セミの鳴き声がひどく大きく聞こえる。今日がどんな天気だとしても胸の奥が重いのは、私が広島の真ん中で生まれ育ったからだろうと思います。見たこともない昭和20年の景色を追体験するように、何度も何度も聞かされた話。沢山の命が消えたあの朝の話を思い出すのです。

 1945年8月6日、広島に落ちた原子爆弾。直接亡くなった人の数は(資料も含めて焼失したため)正確にわからず、昭和20年(1945年)12月末までに約14万~15万人が亡くなられたと市が推計しています。
 当時、広島市には約35万人の人がいたと考えられているため、4割程度の人が亡くなった計算になります。
 消えた命の数だけ奪われた物語があったはずですが、その全てを知ることは誰にもできず、残った物語も段々と風化している。それが現状です。

 私の育った環境は爆心地から近く、小学校で受ける道徳教育のほとんどが『平和学習』と名付けられたものでした。
 折り鶴の折り方は小学校の上級生に教わったし、原爆の威力も、街の復興も、生き残った人の想いも沢山沢山勉強しました。

 当時を生きた人のお話の締めくくりは決まって「あのようなことは二度と起こしてはいけない」なのです。地獄のようだったと涙する人も沢山居ました。
 頭ではわかっていても心からわかることなどできません。当然ですが、体験しているのとしていないのではまるで話が違うのです。地獄を生き抜いた人の話には独特のにおいや色のようなものがあるのです。

 私や周りの人間は勉強したことを次の世代に語り継がなければいけないと教わってきました。戦争を知らない世代が渡していくべきバトンのようなもの、体験していない私達はせめて想いを知識に変えて、あの日を知らない人に話すのです。
 それが尊ぶべき行いなのか、本当の平和にとっての遺恨のようなものなのか、未だに私はわかりません。わかっているのは、あの日見たままの真実を言葉にできる人が減っているということ、いつか一人も居なくなること。それだけです。

“当たり前”は人の数だけある

ポツダム宣言に対して、「黙殺する」と評した日本政府の対応を拒絶と理解したアメリカは、人類史上はじめて製造した2発の原子爆弾を8月6日広島に、8月9日長崎に投下した。(『詳説日本史』)

 教科書にほんの数行羅列された文字。多くの人がこの話の概要を知りながら、内容を知らない。それが普通でそれが当たり前だと改めて感じたのは18歳の時でした。
 進学で地元を離れてから迎えた初めての8月6日、原爆の話が初めてテレビの向こう側の出来事になったのです。
 周りの友人は原爆が落ちた時間を知らない。8時15分に黙祷をするためのサイレンが1分間鳴り続けることを知らない。あの日を語る人の涙を知らない。私の普通を、誰も、知らない。
 しかし、私も友人の普通を知らない。アイヌ民族の知識も無ければ北海道開拓史も知らない。産まれ落ちた土地柄、広島の原爆の話に深い理解があるだけで、長崎の話だって満足にできないでしょう。そう、思えばそんなもんなんです。

 カルチャーショックみたいな思いと、腑に落ちたような感情が混ざり合って生まれた微妙な気持ちは生涯忘れることはないでしょう。それでもやっぱり思う。

 「県外出たら原爆の話って皆そんなに知らんもんなんじゃのー」

 あ、そうだそうだ。広島市の子供達は高確率で『はだしのゲン』を読んで育ちます。学校の図書室で。『ブラックジャック』や『火の鳥』よりも読んでた子多いと思います。
 作内の思想みたいなものや表現は子供にはわからず、大人になってからそのえげつなさに気付くこともあります。大人なアナタはそういうものから触れてみるのも案外おススメです。


ばあちゃんの傷

 母方のばあちゃんの背中には大きな傷がありました。戦争当時は物資もままならないわけで、そんな中での事故だったと聞きます。
 運良く兵隊さんが通りかかったのですが、都合良く薬なんて持ってはいません。鞄の中には毛虱の治療薬しかなく、無いよりマシだと使ったそうです。
 なんて危険な話だ……とは思いますが、そのくらい追い込まれる程度には大変な時代だったのです。それを笑い話にするばあちゃんもばあちゃんだなとは思いますが。

 被爆者健康手帳を持っていたばあちゃん。すなわち私は被爆三世というやつでして。
 そういう世代の自負と言うほどではないですが、もう少しちゃんと話を聞いておけばよかったなと思ったこともあります。しかし、自分の怪我の話以外は語りたがらなかったことを思うと、本当に傷付いていたのはやっぱり心だったのかもしれないなと考えてしまいます。
 今となってはもう何もわかりませんし、私と同じような後悔をしている人もいるんだろうな。8月6日はそんなことも思ってしまう日なのです。


私が願うこと

 個人的に言ってしまえば、辛いことは一切忘れてしまえ。なのですが、話が話だけにそういうスタンスを取るわけにもいきません。必要なら誰にでも話すし、いつか若い子達に継いでもらう知識もあるでしょう。ヒロシマの子として、年に一度くらい真面目になります。

 代わりにとは言いませんが、この時期だけ広島の街で見かける思想の押し付け。原爆に託けて政治的主張を論ずる政治家。そんなものいりません。

 街で従軍慰安婦がどうのこうの言ってたあの人達、普段全く見かけませんけどどちらから来られたんですか?コロナ禍の中で県外からわざわざ来たんじゃないですよね?声張ってビラ撒いてましたけど。

 五輪中継より今日の特番放送しろと言ってた政治家の方、どちらが大事とは言いませんが、今年が特別なだけで原爆の特番は毎年放送してますよ?ご存知ないですか?
 一年飛ばしたくらいで国内外に伝わらない話じゃないんですよ。自分のアピールのために使うの止めません?

 亡くなった人を悼み、目を閉じる。今日はそれでいいじゃないですか。ナガサキの9日も。終戦の15日も。目立つ日こそ静かにしてほしい。
 普段触れもしない主張をここぞとばかりに出してしまう。それは恥ずべきことだと思うのです。

最後に

 これを読んでくれた人が、知っておいたほうがいいなと思って原爆のことを調べてくれたら幸いです。
 しかし、冒頭で言ったように、こんな重いこと知らない方が健やかな人生なのではないか、と思う部分も確かにあります。きっと正解なんてないんです。

 普段適当な文章しか書かないくせに長々と語ってしまった点では先程の自分の言葉がブーメランのように刺さり、恥ずべきことだと思うと同時に非常に恐縮しております。
 しかし恥を忍んででも8月6日に語ることこそ、ヒロシマの血が流れる者の責任のようなものだと思っております。今日は見逃してください。

 今日の広島は晴れでした。当時亡くなった人達がどうか安らかでありますように。

 

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