映画「ブラインドスポッティング」をみた
まずカンタンなあらすじから。
つまりこの映画は黒人差別であったり、米国銃社会の危うさを訴えている作品なのだが、なかでもいちばんわたしに響いたのはこのタイトルだったかもしれない。ブラインドスポッティング。訳すと「盲点」である。それだけ聞くといったいなんのことだかあまりピンとこないだろうけど、この映画で語られる説明に触れると深く胸に刺さる。
あるとき主人公が、元カノにこんな話をする。
「ルビンの壺」の話だ。
ルビンの壺とは、心理学でよく用いられる 見方によって「顔」にも見えるし「壺」にも見える 錯覚を表わす絵のこと。
これを例に、自分は黒人として生まれただけで いわれなき偏見を受けていると説く。見る時にはいつも、見えないブラインドスポッティング(盲点)がつきまとい、だから、黒人=「怖い存在」という面だけが直感的に目に飛び込んで来ることとなる。そうした見え方が、黒人である自分たちを苦しめているのだ と。
鑑賞後、この人のレビューを読んでさらにこの映画の奥深さを知った。
https://eiga.com/movie/91333/review/02371561/
興味をもった人は併せて読んでほしい。
さて、感想に移ろう。
黒人の差別事情に関しては、日本人のわたしからは縁遠く、当レビューを読まなくては映画をそこまで深く理解できなかったわけだが、差別ともなると人間の普遍的テーマなので我が身に置き換えよくよく考えさせられるものであった。
人として生まれた以上そこからまず「自我」という壁が生まれる。「自我」と他者は 完全に隔絶された存在である。われわれ人は「自我」という核から主観的にしか世界に触れることができず、ゆえに苦肉の策として想像を働かせることで客観的につながろうとしている。
今のところ自分と似たような行動パターンを取っていることから推察して今後もそうするであろうという予測からコミュニケートできているにすぎない。しかし文化の違い、育ちの違いなどから さまざまな相違が生じるから、いつもいつもこちらの予測通りレスポンスされるわけではない。それで警戒心が芽生え、なるべくフィーリングの合う自分と似た種族ばかりと付き合うようになる。
この先は「思いやり」しかない。
特に偏見が色濃く残る黒人や、障がい、LGBTQ関連の問題になると初見はどうしても「ルビンの壺」だから一方向から必要以上に恐れてしまいがちだ。人は理解不能をすこぶる恐れるものだし、でもだからといって学習するほど深い関心もない。そういう連中の言動が差別を増幅させている。
つねに自己中心なのだ。「お前を思いやるくらいなら、まずお前の方から俺を思いやれよ」と言ったようなプライド重視の「折れた者負け」なマウントの取り合いが延々とつづく。
差別化がクローズアップされる度『インクルーシヴ』という使い勝手の良い言葉がもてはやされる。確かにそれは理想だろう。世界中がそうあってほしいと願う。けれども この言葉を容易に扱う人間ほど実践できているとは言い難い。
やはり類は友を集めるからである。
白人は 白人側に立ちながらの 黒人擁護、
黒人は 黒人側に立ちながらの 黒人擁護 で
それとこれは出どころが異なるのでどうやっても混じり合えない。
障がいやLGBTQ関連にも同様のことが言える。自身の経験に落とし込めるか、当事者であるかそうではないか、これはとても重要な要素なのだ。
世界じゅうの人種にくらべると、それらの違いを総じて学べるほど人間一人の寿命が長くないことも拍車をかけている。
男女差別、黒人差別、障がい者差別、LGBTQ差別、、ひいてはパレスチナ問題や地球環境問題も人間のエゴから生まれる社会問題である。
繰り返しになるが、あとは「思いやり」しかない。
汝の敵を愛せ とは良く言ったもので、それができれば世話ないわけで、しかしそれでもこの世から差別や偏見をなくしていくには「思いやり」を除いて他にないのではないか。