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私を離れては何もできない(2)(第二説教集20章2部試訳2) #187

原題:An Homily of Repentance, and of true Reconciliation unto God. (悔い改めと神との真の和解についての説教)

※第2部の試訳は2回に分けてお届けしています。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(33分23秒付近から40分44秒付近まで)



その3~信仰

 悔い改めの第三は信仰です。信仰によってわたしたちは罪の寛大な赦しに触れ、神の約束を理解してそれを守ることができます。その約束はみ子イエス・キリストの死と流血によってわたしたちに与えられています。み子イエス・キリストを通して、神がわたしたちの罪すべてを赦してくださり、それをなかったことにして不問に付されるということをわたしたちが確固として信じず、またよく説かれなければどうなるでしょう。何によってわたしたちは自身の罪を悔い、無辺のご慈悲をもった天の父に対して罪を犯しているということを思ってそれを嘆き、仮に心の底からではないとしても、自分たちの過ちや罪を認めて告白できるというのでしょうか。救い主イエス・キリストへの生ける信仰なしに悔い改めを説く者は、あらゆる律法学者が説いているように、ユダの悔い改めのほかの何も説かず、心からの悔悛と、口による告白と、行いを正すことという、三つの事柄をするようにとしています。

ユダの例

このすべてをわたしたちはユダの悔い改めの中に見ており、それは表向きにはペトロの悔い改めをはるかに超えて強いものではあります(マタ27・3~5)。福音書を読んでわたしたちが知っていることとして、ユダは何よりもひどく悲しみ後悔し、自分が犯したことに対して心の懊悩や苦痛を持ち、これ以上は生きることができないと考えました。彼は自ら首をくくるまえに自身の過ちについてはっきりと告白し、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました(同27・4)」と言いました。これはまさに堂々とした告白で、彼自身に大きな非難をもたらしかねないものでした。しかしこれによってユダは、無垢の血を流させたことが祭司長や長老たちに責があるものとして、彼らを忌むべき殺人者であるとしました。ユダは彼らから与えられた金銭を彼らに返し、ある程度の満足を得たのでした。

ペトロの例

 しかしペトロは自身の主を否定するという極めて重い罪を犯し、忌むべき反抗をしたにもかかわらず、聖書を読んでも、彼についてユダのようなことは見当たりません。彼が「外に出て激しく泣いた(同26・75)」とあることをわたしたちは読んでいます。このことについてアンブロシウスはこう述べています。「ペトロが悲しんで涙を流したのは。人間として過ちを犯したからであった。私はそのとき彼がどのような言葉を発したのかを知らない。私が知っているのは、彼が涙を流したということである。私は彼の涙について聖書を読んで知っているが、彼の満足については知らない。」

なぜペトロは赦されユダは赦されない

なぜ一方はふたたび神の愛に受け入れられたのに、もう一方は捨て去られたのでしょうか。それは、一方は知らないと否定した方に対して持っている自身の中の生ける信仰により神のご慈悲に与ることができたものの、もう一方は信仰を望みながらも神の善性とご慈悲に絶望したからです。明らかであるのは、自身の罪について心から深く悔いることなしにそれを認めて告白しても、わたしたちには完全な破滅がもたらされるほかはないということです。天の父である神は、み子イエス・キリストによってわたしたちの罪や過ちを赦され、それをご自身の目の前から取り除いてくださると、わたしたちは確固として信じなければなりません。さきほどお話したとおり、キリストによらず、また神のご慈悲への生ける信仰を持たずに悔い改めを説く者は、カインやユダの悔い改めしか説くことができないのです。

その4~命の向き直し

 悔い改めを成す第四のものは命の向き直し、つまりは新しい命であり、悔い改めによってもたらされる果実です。真に悔い改める人は新しく生まれ変わるべく清められて新しい人となり、もはや以前のような人ではなくなります。バプテスマのヨハネは、洗礼を受けに来たファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に対してこう言いました。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ(同3・7~8)。」ここでわたしたちが学ぶのは、神の怒りを和らげたいのであれば、わたしたちはうそぶくのではなく真に健やかな悔い改めをもって、再び神に立ち帰らなければならないのであり、これは確かで揺るぎのない徴である良い実によってわかるものであるということです。

真に低くなって慎ましくあるべし

 心の底から自身の罪を認めて過ちを大いに嘆く人は、あらゆる偽善を捨て真に低くなって心を慎ましく持つものです。彼らは魂を治す医師を迎え入れるだけではなく、待ち遠しい気持ちでその方を望みます。彼らはそれまでの自身の生における罪をはじめとしたあらゆる淫らな悪徳を疎ましく思うだけではなく、そのようなものに出会う機会を避けて、遠ざけて、忌み嫌います。以前のように不浄な生に身をやつすのではなく、あらゆる勤勉さをもって、無垢で純な生や真の善性の中に身を置こうとします。わたしたちにはニネベの民の逸話があります。ヨナが教えを説いてまわったことにより、彼らは「断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった(ヨナ3・5)」だけではなく、「おのおのの悪の道とその手の暴虐から離れ(同3・8)」ました。またこれ以上に、ザアカイの逸話にははるかにわたしたちの心に訴えるものがあります。救い主イエス・キリストが来られて、彼は「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します(ルカ19・8)」と言いました。

私を離れては何もできない

 ここでわたしたちは、彼が悔い改めによって以前の彼とは違うものとなり、新しく生まれ変わったことを見ることができます。飽くなき強欲さに従い続け、誰からも根こそぎ奪う以前の彼の姿とは大きく違い、むしろ彼は自らすすんで、持てるものを他者に分け与え、自分がこれまでに傷つけて悪を為したすべての人を満たそうとしています。また同じようなこととして、かの罪深い女性の逸話もあります。彼女は救い主イエス・キリストのところにやって来て、そのふしだらな目からたくさんの涙を流し、愚かな者を惑わすかのようにして「イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い(同7・38)」極めて手慣れた様子で、その髪をもって悪魔の罠としていました。この逸話によってわたしたちは、神がわたしたちにお求めになる悔い改めとはどのようなものであり、わたしたちが悪から遠ざかって善を行うとはどのようなことであるかを学ぶことができます(イザ1・16~17)。誰かに悪を為したのなら、力の限りに真の改心をもってその人に向かい、ザアカイやこの罪深い女性の逸話や、ザカリアの子であるバプテスマのヨハネが自身のもとに助言を求めて集った人々に対して行った説話に倣うべきです。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハ8・11)」というのはキリストが罪人に命じられた悔い改めでした。「私を離れては、あなたがたは何もできない(同15・5)」と言われるキリストの大いなる愛がなければ、わたしたちはこの悔い改めを満たすことはできません。少なくともわたしたちが自身の健やかさや救いを望むのなら、天の父に対し、聖霊をもってわたしたちを助けてくださるように、極めて熱心に祈ることがわたしたちに求められます。そうすることによってわたしたちは真の羊飼いの声を聞くことができ、定められた務めをもってその方に従うことができるのです。

まとめと結びの短い祈り

 全能の神の声に耳を傾けましょう。神はわたしたちに悔い改めを求めておられます。不信仰な者と同じく心を頑なにしてはいけません。悔い改めをするようにと神から授けられた時間を無駄にするばかりか、高慢なままに、神や人に対する嘲りを表すことにそれを費やしてはいけません。そのようなことをする者は心の頑なさゆえに、自身がどれほど神の怒りを招いてしまっているのかを知らず、復讐を受けるその日にはもう悔い改めるに遅いとなってしまいます。わたしたちは神の律法に反したのですから、神から遠くあることを悔い改めなければなりません。神のみ前で、自分たちが取るに足らない者であることを告白しましょう。キリストの功績による神の慈悲を信じ、神の赦しを求めるのです。そこからわたしたちは新しい生にあって、生まれたばかりの赤子として歩むように努め、天におられる父を栄光とし、わたしたちいの良心において信仰の善き証しを持ちます。そうして、救い主によって、ついには永遠の命という果実を得るに至るのです。すべての誉れと栄えがとこしえに神にありますように。アーメン。



今回は第二説教集第20章第2部「私を離れては何もできない」の試訳2でした。これで第2部を終わります。次回は第3部に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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