夫婦は共に敬い合うべし(1)(第二説教集18章試訳1) #177
原題:An Homily of the State of Matrimony. (結婚の意義についての説教)
※第18章の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(15分57秒付近まで):
結婚の意義~悪魔に欺かれない
全能の神のみ言葉のなかで、結婚の起こりはいつで、なぜ結婚が聖とされるのかが明らかされています。結婚は神によって定められましたが、これは男女が永続する愛情を持って律法に適って生活し、不貞を避けて実りをもたらすことを意図するものです。結婚によって男女の双方に健全な良心が保たれ、肉の堕落した性向を誠実さに繋ぎとめることができます。神はあらゆる不貞や不浄を厳しく禁じられており、さまざまの例にみるとおり、いつの時代においてもそのような放埓な情欲に大いなる罰を下されてきました。また神の教会と神の国は結婚によって守られて大きくなると言われています。これは神が祝福によって子を授けているという点においてのみ言えるのではありません。子が両親に信仰深く育てられることによって神のみ言葉を知り、神とその真の教えが覚えられて代々と受け継がれ、ついには多くの人が不死の永遠を享受することになるという点においても言えることです。結婚によってわたしたちは罪や過ちを避けて神の国を栄えさせるに至ります。みなさんは結婚について考えるにあたり、純粋で感謝に満ちた心をもって神のこのみ恵みに気付くべきです。神はみなさんの心を統べておられ、みなさんが世にある邪な例に従わず、罪の淫らさの中に喜びを見いだすこともなく、夫婦ともに神を畏れてあらゆる淫らさを忌み嫌うようにしてくださっています。そこに至ることは間違いなく神からの特別な賜物です。世によくある例によって明らかであるのは、悪魔が男性の心を掴んでさまざまな罠に向かわせようとしているということと、そこに妻という存在がなければ男性は良心から何も叫ぶことなく大変な忌まわしさに陥るということです。そのように堕落して淫らに生きる者にはどのような劫罰が下されることでしょう。聖パウロはそのような者にかかわり、淫らな者や姦淫をする者が神の国を受け継ぐことはないと述べています(一コリ6・9)。神の定められたところに従って夫婦でともに生きれば、この恐ろしい裁きを神のご慈悲によって避けることができます。目を見張らず不注意なままであってはいけません。みなさんがひとたび気を許してしまえば、悪魔は良心や信仰を乱そうとしてあらゆることを試してきます。悪魔はみなさんのなかに生まれた信仰の結び目をほどこうとするか、あるいはあまたの悲嘆や不快をもってその結び目を作らせないようにします。
悪魔に付け入られて結婚は崩れる
これは夫婦間の心の不和を引き起こす一番の悪知恵です。いまみなさんの間には心地よく甘美な愛情がありますが、悪魔はそこにそれとは違った極めて不快で苦みのある不和をもたらします。間違いなく、わたしたちの心を乱すものが天から降って来たかのように人間の本性に害を及ぼします。支配したいという欲求に従って自身を尊大にとらえる愚かさは幼いころからわたしたちの中で大きくなっていて、やがて他の人に譲るのを善いことであると考えなくなっていきます。頑迷な意思と自己愛という邪な悪徳は心の安らぎを保つどころか、心にある愛を壊して千々切れにします。結婚していれば極めて早くから心を安らげようと、自身の尊大な心を抑えて夫婦の心を編み合わせます。不和がもたらす分離によって愛が千々切れにならないようにと、絶えず神に対して聖霊の助けを祈り求めることができます。夫婦はいつも一方がもう一方のためにこの大切な祈りを持ち、憎しみや争いが夫婦の間に起こることのないようにすることができます。しかしこのことに思いを致さず実際にそうしない、つまり真剣に相手のために祈るということをしない夫婦も少数ながらいます。わたしたちは悪魔がどれほど鮮やかに結婚を欺いて貶め、叱り合うことも言い合うことも、嘲り合うことも責め合うことも、酷く罵り合うことも喧嘩をすることもない結婚がどれほど少ないかを知っています。そのようなことをする夫婦はみな、それが不和を持たせることに大いなる喜びを持つ霊的な敵からの教唆であるとは考えていません。そうでなければ誰もがあらゆる熱心な行動をもって、つまり祈りをもってのみではなく可能な限りの勤勉さをもってこの不和に抗うことでしょう。そうです、自分たちにそのような荒くて棘のある言葉を吐かせたり、悪魔による鞭うちの跡を付けさせたりしてしまうことへの怒りに自身が乗せられてよしとはしないでしょう。悪魔の誘惑に乗ればあらゆる嘆きや悲しみの網を編み始めることになります。そこから心の中にある真の一致が引き裂かれ、あらゆる愛が簡単にかき消されてしまうというのは実に多く起こっていることです。互いに安らぐことなしに生活することを必要に迫られて強いられるのを目にするのは悲しいことでしかありません。それなのにこういったことがあちこちでよく目にされています。
夫婦の一致を大切にして高めるには
この原因は何でしょうか。実を言えば悪魔の悪知恵による企みについてよく考えずにいてしまい、悪魔の力を押さえつけてくださるようにと神に祈りを献げていないからです。また自身の怒りに従うままになってしまい、どれほど自分が悪魔の意図することを推し進めてしまっているのかを考えることができていないからです。互いに罵り合って愚かな行いをして右往左往し、自分のわがままを優先して他に譲るということをしないでしまっていています。言い換えれば多くの場合は自分に都合の悪いことを選び取っていないということです。したがってあらゆる悲惨を避けたいと望むなら、また結婚して平穏かつ安楽に過ごしたいと思うなら、みなさんはこれを考えなければなりません。神が夫婦の心を聖霊によって統べられ、悪魔の力を遠ざけてその一致を永く保つようにするために、どのような心からの祈りを神に献げるべきかということです。聖パウロはこの祈りには特別な勤勉さが伴われるべきであると述べています。「夫たちよ、妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません(一ペト3・7)。」この言葉は夫についてのものです。夫は夫婦の一致を大切にして高め、愛を導いて創る者です。夫が横暴さを持たずに穏やかさを持てば、また妻に物事を譲ればこの教えのとおりになります。女性とは弱い生き物で、心の剛健さや堅固さを備えていません。男性に比べて心を早く取り乱し、愛情や意気が弱く軽率であり、幻想や空想にふけります。このことを男性はよく理解し、厳しくなりすぎずに、ときには目をつむる必要もあり、忍耐強くあらゆる物事を優しく説くべきでもあります。しかしながら、多くの男性がそのような穏やかさを男性に相応しくないものと考えています。穏やかさは女性のような臆病さを示すものであり、怒りで上気して拳や棒で戦うのが男性であると考えています。しかし世の多くの男性がどう思おうと、男性らしく見えるとはどのようなことで、男性はどれほど理性をもって振る舞うべきであるかを聖パウロはまぎれもなく明らかにしています。戦いではなく理性を用いるべきと彼は言っています(同3・8~9)。また女性も本来の誉れを持つべきであると言っています(同3・3~4)。女性は頼りなげな心を持った弱き器であり、怒りをもって発せられる言葉に耐えられないように造られています。虚弱さがあるのですから、女性には憐れみが向けられるべきです。この意味において男性は女性を従わせるだけでなく、女性の心をその力と意志をもって守るべきです。誠実な本性は鞭打ちによってではなく温和な言葉によってその務めを果たすために保たれます。
結婚に心地よさをもって神に仕える
あらゆる物事を極端さや厳格さをもって行い、常に厳しさをもって言葉を発したり鞭打ちを行ったりして何の意味があるというのでしょうか。実のところ何の意味もありません。そういうことをする者は悪魔の行いを為しているに他ならず、夫婦の一致や愛や甘美さを消し去り、意見の相違や憎しみや厄介さといった、互いの愛や共同生活における極めて大きな障害をもたらします。さらに悪魔の行いによってまた別の悪がもたらされます。それは祈りを壊すということです。心が意見の相違や不和で満ちている時に真の祈りが持たれることはありえません。主の祈りは個々人のみならずこの世の普遍的な事柄についてのものですが、そのなかでわたしたちははっきりと「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように(マタ6・12)」と口にしています。夫婦の心に意見の相違があるときにこの祈りが正しく為され得るのでしょうか。いがみあっていてどのようにして互いのことを祈れるのでしょうか。祈りによる助けがなくして、どのようにして平穏を保てるというのでしょうか。危険に際して祈りが必要なとき、祈りによるほかに夫婦は悪魔に抵抗することも自身の心を確固たる平穏のなかに置くこともできません。霊的なものであれ肉的なものであれ、あらゆる不利益は口にし難い言葉や行うのがためらわれるような獰猛な行為によってもたらされます。しかし、そういったものは理性ある人間ではなく野蛮な獣に似つかわしいものです。聖ペトロはそれらを認めませんでしたが悪魔は大いに望んでいます。ですからみなさんには気を付けてほしいのです。極端な厳しさを持たなくても、そうです、妻のいくつかの行いに目をつむっても、男性は男性であることができます。神に喜ばれ、結婚に心地よさをもって神に仕えることはキリスト教徒の務めであるのです。
妻たちよ、自分の夫に従いなさい
次に妻の務めについてお話しましょう。妻に相応しいのはどのようなことでしょうか。妻は夫の温和さや優しさの上にあぐらをかいて、物事を好きなようにしていてよいというのでしょうか。そうではありません。そのようなことは神のみ心に大いに反します。聖ペトロは「妻たちよ、自分の夫に従いなさい(一ペト3・1)」と説いています。夫に従うということと、子どもなど家族の他の者に物を言いつけたり命じたりするということは別のことです。夫に対して妻は従うべきで、夫に物を言いつけるなどせず、むしろ夫の言いつけに従うべきです。これが夫婦の一致を生み出すのに大いに役立つことです。妻は夫の言葉に従い、夫の意に沿い、夫の満足を求めて夫を喜ばそうと努め、夫の気分を害するあらゆることを避けるべきです。これは詩人の言葉にみることもできます。「良き妻は夫に従うことによって決まりを作る。妻が夫に従うことで夫は喜びと嬉しさを持ち、いつでも早く妻の待つ家に帰る。」しかしこの一方で「妻が頑なで気難しくふてぶてしいと、夫はまるでそこに敵がいるかのように家を嫌い、そこから遠ざかろうとする[8]」ともあります。どんな夫婦の間でも口論が起こることはあります。これはどんな夫でも過ちを犯すということ以上に、女性は男性よりも意思が弱いからです。夫婦もろとも過ちやわがままに陥らないように気をつけるべきです。むしろ妻は自身の足りなさを認めて「旦那さま、実のところ感情にまかせて、わたしはいろいろなことを言ってしまいます。そういうわたしを許してください。これからはよく気をつけます」と言うべきです。女性は口論をしやすいので夫婦が口論をしやすくなってしまうのですが、夫婦は口論をするべきではありません。言い合いや考えのぶつけあいを避けて、神の戒めを守るべきです。聖パウロが「妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです(エフェ5・22~23)」と言っているとおりです。妻は夫の権威をしっかりと認め、夫に服従して敬愛を向けるようにとされています。さきほど読み上げたところの続きで聖ペトロは、聖なる女性がかつて金や銀でではなく神への希望を全身にまとい、また夫への服従によって自身を飾っていたと言っています。「例えばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に従いました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの子どもとなるのです(一ペト3・6)。」この言葉は女性が心に刻んでおくべきものです。
妻は夫への服従で自身を飾るべし
実際のところ女性はとりわけ結婚による不自由さや苦労を感じるはずです。自分の決めたことに従うという自由を捨て、住むところを移り、子どもを育てなければなりません。そのようななかで女性は大変な不安を持ったり大きな苦痛を伴う悲しみを持ったりします。そもそもそういうものは結婚をしていなければ持たなくて済むものです。しかし聖ペトロは「かつて、神に望みを置いた聖なる女たちも、このように装って、夫に従いました(同三・五)」と述べています。これは結婚に伴う務めやそのための悲しみと不安がありながら、女性は結婚するのを断るどころか、神に求めれば助けていただけるという極めて確かな信仰を持って、苦難となるかもしれない結婚を選んだということです。ああ女性たちよ、みなさんはそのようにしているでしょうか。みなさんは神のみ前や天使や聖人の前で特に美しくあるのでしょうか。みなさんはさらに善い行いをしようとしなくてもよいのでしょうか。夫に従い、夫の考えるところを汲み取り、夫が求めるところを察して夫に仕えて敬愛を向け、家の中で平穏に暮らすべきです。こういったことすべてをすることの彼方に、神は妻についても夫についても、あらゆる物事がうまく運ぶように祝福を用意してくださっています。『詩編』にはこうあります。「幸いな者、主を畏れ、その道を歩む者は皆。あなたの手が苦労して得た実は、必ずあなたが食べる。あなたは幸いだ。あなたには恵みがある。妻は、家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木のよう。子どもたちは、食卓を囲んで、オリーブの若木のよう。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される(詩128・1~4)。」妻はこの言葉を心に持つべきです。妻は自分の頭にある飾りについて諭されるとき、この言葉によって自分が夫への従属や服従のなかにあるということを覚えます。頭の飾りは本性を表すものですので妻の従順さを示すものであるべきです。また妻はその他すべての飾りにおいて慎ましさやしおらしさを表すべきであると聖パウロは言っています。女性が頭を飾らないでいることは律法に反しませんが、行く先々で飾りをもって力を見せつけることは律法に適っていません。女性は飾りが表すものによってよくわかります。
妻は夫を責めてはならない
古い時代から女性は夫を主人と呼んで、夫に従うことで敬意を示しています。しかしひょっとすると妻からすれば、それは古い時代の男性が妻を心から愛していたからだとなるかもしれません。それはもっともだと思いますし、心によく留めるべきです。ただそうは言っても、いまみなさんに対してあるべき務めを説いているというのに、古い時代の男性がどうであったかを思うのは止めてください。わたしたちが子に対して親である自分に従うようにと説いたり、召し使いに対して主人である自分に従うようにと話したりするとき、わたしたちは目の前にいるこの自分に対してだけでなく、神に対してそうするようにと言っています。そのとき彼らがわたしたちに対してわたしたちのあるべき務めを語ったとしても、それが説得力を持つものであるとみなすことはできません。自分の行いや過ちについて諭されるときに、他人の行いがどうであるかなど考えるべきではありません。誰かが過ちを犯す際に自分がそのそばにいただけだとしても、自分に過ちがなかったということにはなりません。その様子をあるがままに見たとき、どうしてみなさん自身が非難されないというのでしょう。アダムはかの女性を非難し、かの女性は蛇に責任があるとしましたが、二人とも言い訳になってはいませんでした。同じように、さきほどお話したような物言いをわたしに向けてはなりません。みなさんは勤勉さのすべてをもって夫への服従について話を聞くべきです。
妻は厳しい夫でも受け入れるべし
さて、夫は妻を愛し大切にするべきと説くにあたり、わたしは律法で夫に定められていることを男性に求めもしますが、律法で妻に定められていることを引き合いに出すのを控えはしません。妻は自分のするべきことをして、夫に対して従順であることを示すべきです。また神の教えに沿って夫に従った上で、夫の務めであるはずのことを夫にさせたいというのなら、まずは律法を定められた方が妻の為すべきとされていることを勤勉に行うべきです。神の律法に反するつもりはないと思いますが、そもそも神に従うのは当然のことです。友を愛する人には何の大きな報償もないとされる一方で、自分に憎しみや害を及ぼす人について神に誉れを向ける人は賞賛されます。そう考えれば、妻は厳しい夫を受け入れることによって大きな報償を得ることになります。温和で礼儀正しいからというだけで夫を愛しているのであれば、神が何の報償をくださるというのでしょうか。夫は妻に厳しくあってしかるべしという意味でこう言っているのではありません。妻は夫の厳しさによく耐えるものとわたしは言いたいのです。夫婦が互いに自身の務めをよく果たせば、それによって大きな恵みが隣人たちにももたらされます。妻が厳しい夫をよく受け入れ、夫が頑固で厄介な妻にきつくあたらなければ、物事はすべて穏やかなままで、まるで天国にあるかのようになります。すべての人が自身の務めを行うべきであるというのは古い時代にも言われていましたが、隣人に対して大いに務めを行うようにとは求められていませんでした。みなさんにお願いなのですが、アブラハムが弟の息子を自分のもとにおいたときのことを思い出してください。彼の妻はこのことで彼を非難しませんでした。アブラハムはこの弟の息子に自分とともに長い旅をするようにとしました。妻はそれに反対することなく、むしろ夫の考えに従いました(創12・4~5)。
今回は第二説教集第18章「夫婦は共に敬い合うべし」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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