茨の冠を載せられても(第二説教集21章2部試訳) #194
原題:An Homily against Disobedience and wilful Rebellion. (不服従と反乱を戒める説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(25分45秒付近から)
旧約世界にみる権力への服従~ダビデ
君主に対する臣民の服従を説き、不服従と反乱を戒めるこの説教の第一部で、わたしは聖書からその典拠となるたくさんの箇所をみなさんにお示ししました。より強くこの教えを確かにするために、善良で恵み深い君主に対してのみならず邪悪で冷酷な君主に対しての臣民の服従について、聖書から一つか二つの例をお話したいと思います。サウル王は最も良い君主の一人ではなく、むしろ最も悪い君主の一人です。神が義によって殺害するようにとされた呪うべき敵であるアガグ王を、彼は筋違いな憐れみもって容赦したことにより、神に対する不服従を犯したとされ、神の恩寵から遠ざけられました(サム上15・3、同15・9)。サウルは神への信仰から、神に誉れを向けるために、いけにえとして献げるべくアマレクのものの中から分けてとっていたと言ったのですが(同15・15)、彼はその筋違いな憐れみと奉献を窘められ、そのような考えを持つよりも、よく神に服従していれば神に喜ばれたであろうにと諭されました(同15・22)。聖クリュソストモスが言うように、神に命じられれば、人間の罪深さは神のみ前にあってどのような殺戮や流血よりも残酷になります。どれほど邪で神の恩寵から離れていても、サウル王はその臣下であるダビデの服従を受けていました。ダビデはまさに臣下の中の臣下であり、戦時にあっては君主と国家に仕えること勇敢であり、平時にあっては従順なること愛すべきほどでした。常に君主に対して真にして忠実であり、反乱とは極めて遠いところにありました。ダビデが極めて苦痛をもって、しかし真に忠実に仕えていながら、サウル王は大変な冷淡さをもって彼を遇しただけではなく、あらゆる手段をもって彼を破滅と死に追いやろうとしました。
油注がれし者に反抗するべからず
ダビデが命を落としそうになったのは、反乱や謀反を起こしたからではなくサウル王の目から逃れも隠れもしなかったからでした。しかしそれにもかかわらず、サウル王が一人でダビデのいる洞窟に来たとき、サウル王を殺めようと思えばできたのに、ダビデは自身で彼に傷を負わせることもせず、配下の者たちに手を下させもしませんでした。また、ダビデが夜に勇敢で烈しいアビシャイとともにサウル王が眠る幕屋に入り、そこでたやすく彼を殺めることもできた時がありました。しかし彼はサウル王を自分の手で傷つけることもなく、サウル王に手をかけたい一心であったアビシャイにも、手を触れることすら許しませんでした。サウル王がダビデを絶えず死と破滅に追いやろうとしていたにもかかわらず、ダビデはこのように君主であるサウル王に対したのでした。ダビデの行いに言葉を付け加え、彼が語ったことをみなさんに示すことは間違ったことではないと思います。彼はしようと思えば、この世での敵であるサウル王を殺める機をとらえ、それを逃さないこともできました。ダビデはこう言っています。「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ(同24・7)。」「主は生きておられる。時が来て死ぬにしろ、戦いに出て倒れるにしろ、主は必ずサウルを打たれる。主が油を注がれた者に手を下すようなことを、主はお許しにならない(同26・10~11)。」
油注がれし者を殺めるとは何事か
これらはダビデの言葉であり、彼はサウル王を殺めるように勧める多くの臣下に対して何度もこのように語りました。また見逃されても忘れられてもならないことがあります。サウル王が敵であるペリシテ人との戦いに敗れてこの世を去ったのちに、あの一人のアマレク人が、サウル王の命令によるとはいえ自分がサウル王にとどめを刺したことをダビデのもとに急ぎやってきて第一報として嬉々として知らせたときのことです(サム下1・2)。このアマレク人はダビデの敵の死を証明するものとして、またダビデを喜ばすものとしてサウル王の頭にあった王冠と腕にあった腕輪を持ってきて、ダビデがその王国を受け継ぐべきであると神が定められているとしました(同1・10)。しかし信仰深く神のみ心に適ったダビデはこの知らせを喜ぶどころか、自分の衣を引き裂いて嘆き悲しんで断食をしました(同1・11~12)。これを知らせたあの者については礼を述べるどころか、いかに自身の仇敵であるとはいえ王を殺めたというその行いと、その知らせやそれを証明するものを持ってきたことにかかわってこう言いました。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か(同1・14)。」その上で、ダビデは知らせを持ってきたこの者を即座に打ち殺すように命じて、「お前が流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『私は、主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから(同1・16)」と言いました。
ダビデは決して王に逆らわず
親愛なるみなさん、この逸話はよく覚えておくべきものであり、その意味するところをよく考えれば、臣民はすべて服従という絶対的な義務の中にあり、反乱を企てて君主を殺めてはならないということを教えています。ダビデは善良な真の臣下であるだけではなく、平時と戦時の両方にあって君主の誉れと命に仕えてそれを守り、国と民を不信仰者や国外から王と国を脅かす極めて残忍な敵から守りました。そのためダビデはすべての人々から特に称えられ(サム上18・6~7、同18・30)、そうしようと思えば多くの人々を意のまますることもできるほどでした。これに加えて、ダビデはごくありふれた臣下ではなく、神がサウルの後に王位につけられ、王冠と国とを受け継ぐに相応しいとされた人でした(同16・12)。このことは人々のダビデに対する愛を高めたのと同じく、ダビデの姿を他の並み居る臣下とは大きく違うものにしました。何よりもダビデは格別に神の愛の中にいました。他方、理由をすでにお話していますが、サウル王は神の愛から離れ(同15・10~11)、神の敵であるかのごとく争いを好み、国家から痛ましくも平和を奪いました。このことを臣下の多くが目の当たりにし、彼は神への不服従ゆえにサムエルから咎めを受け、人々から敬われなくなりました(同15・26)。サウル王はダビデにとってすれば滅ぶべき敵となったのですが、ダビデは忠実で献身的で、君主に対しても国家に対しても益のある重要な務めを行いました。しかしサウル王はといえば、卑しく忌むべきことに、そのような善良な臣下に対してますます不実さや憎悪や残忍さを露わにしました(同18・10~11、同22・17)。それでもダビデは敵となるサウル王に対して、君主であるという理由から、刃を向けることも傷つけることもありませんでした。何の騒ぎもなく、誰の命の危険もなく彼を殺めることができたかもしれないのに、人を使って殺めたり傷つけたり手をかけたりということもしませんでした(同26・9)。
反乱者とダビデの想定問答
反乱を起こそうとする者の問いに対し、ダビデならこう答えるでしょう。 【問】自分とて確かにそれほど善良な人間ではないとはいえ、戦時も平時も栄えることなく国家に害を及ぼして神に疎まれ、神の敵となった君主に反乱を起こしてはいけないのでしょうか。【答】善良で神のみ心に適う臣下であるダビデなら否と答えるでしょう。そのような王に対してであっても、反乱を起こそうと考える臣下は忠実な臣下でもなければ善良な人間でもないと言うでしょう。【問】では、わたしたちの心からの忠実で献身的な務めや、わたしたちの栄達を保障することについて何も考えない、極めて冷酷な君主に対してなら反乱を起こしてよいのでしょうか。【答】善良なダビデなら否と答えるでしょう。その冷酷さがどれほどのものであれ、君主に対する当然の服従を捨ててよいほどのものであるはずはないのだと言うでしょう。【問】それでは、自分の命を狙っていて、しかも滅びに定められてもいる王に対しても反乱を起こしてはいけないというのでしょうか。【答】み心に適うダビデなら否と答えるでしょう。救い主が後に教えとしてわかりやすく説かれることを彼はすでに知っていたからです。わたしたちは他の臣下がわたしたちを憎んでいて敵となろうとも、彼らを傷つけてはなりません。まして君主については、たとえ敵になってもなおさらそうであると言うでしょう。【問】わたしたちは自分と同じく善良な者たちから成る軍勢を集め、自分はもとよりそのともに立つ人々の命を危険にさらして国家の安泰を脅かしてでも、暗愚な君主を廃するべきではないのでしょうか。【答】み心に適うダビデなら否と答えるでしょう。多くの人々を集めて軍勢を作らずに、また、誰ひとりの命も脅かしたり危険にさらしたりすることなく、一滴の血も流すことなしに、自身と自身の国を邪悪な君主から救い出すことができるとしても、自分はそうしないと言うでしょう。【問】集められた人々が堂々として勇ましい隊長たちで、気力を持った勇気ある善良な人々であるのですから、君主が暗愚であり自分の敵となるのであれば、あえて力によって王を殺めたり廃したりもすることもあるのではないでしょうか。【答】み心に適うダビデならこのように言うでしょう。堂々として勇ましいと自称していても、そのようなことをするのであれば善良でもなく神のみ心に適ってもいません。自分は敵であるサウル王を殺めた邪悪な者を咎めて処刑するように命じました。たしかに王が、敵に対する勝利の希望をなくして生に疲れ、その者に自身を殺すようにと望んだことであったとはいえ、自分はそうしました。【問】ではわたしたちは邪悪で良心のない君主に対して、神に遠ざけられわたしたちの敵となった君主に対して、国家を荒れさせた君主に対して、何をするべきなのでしょうか。【答】善良なダビデならこう答えるでしょう。神が君主の働きに終わりを定められるまで、君主に対してはいかなる暴力的な手段も用いてはなりません。天寿によって死するか、敵に対する正義ある戦いに斃れるかによるものであり、臣下による弑逆によるものであってはなりません。
悪王に服従すべし、いわんや善王には
み心に適うダビデならこのように答えるでしょう。ただみなさんが知ってのとおり、聖パウロもそのような君主に対しては同じことをわたしたちに願っています。聖書に書かれている行いと言葉をみれば、ダビデ王がさきほどのように答えることはわかるでしょう。実際に彼は邪悪で良心のない君主や残虐な君主や、善良な臣下の敵となる君主と、神の恩寵から離れ国家に対して害があるかまたは害をもたらしそうな君主への反乱に関する問いに対して答えています。悪辣で良心のない臣下が反乱を企てて何千もの人々の命を大いに危険にさらしたとしましょう。国家や国土のすべてを危うくして、誰にとっての敵でもなくあらゆる人にとっての善であり、最も低く言っても国家にとって極めて益があり、国土全体を守るのに極めて重要な永続する平和と平穏と平安の維持者である正統の愛すべき君主がいます。その臣下がこの君主を恐怖に陥れ、王位を簒奪したのちに殺めたらどうなるかという質問に対して、ダビデ王ならどのように答えるでしょうか。彼らが残忍にもまた不当にも、平和を愛する慈悲深い君主を亡き者にしようと企んだらどうなるかという問いに対して、ダビデならどのように答えるでしょうか。ダビデはサウルについて畏敬を持って語り、あれほどまでに邪悪な君主を忍耐強く受け入れていますが、そのような問いに対してどのように答えるでしょうか。
善王に服従せざるは悪魔の奴隷
みなさんがこれまでに聞いてきたように語ったり行ったりして悪事を企む者に対して、また邪悪であるからという理由で主君である王を殺める者に対して、彼なら何と言うでしょうか。いや、何をするのでしょうか。もし彼がそのような者を邪な行いをした者として死をもって罰するなら、どのような叱責の言葉をもってその者に対するでしょうか。また、わたしが先ほどお話した邪悪な反乱者以上に、どれほど恥ずべき死の苦しみをもってそのような地獄の番犬どもを滅ぼすでしょうか。邪悪で良心のない君主に服従しない者が善良な臣下であるダビデとは似ても似つかないことをするとしても、極めて正統で愛すべき君主に反乱を起こす者はどうなるのでしょうか。ダビデは極めて善良な臣下であり、彼自身が王となるに相応しい人物であったにもかかわらず極めて邪悪な王に服従していましたが、君主であるに相応しい恵み深い君主に反乱を起こす極めて邪悪な臣下はどうなるのでしょうか。善良な君主に仕える柔和で幸福な臣下であることを蔑み、哀れにも地獄の暴君であるサタンに囚われて卑しい奴隷となる者に似つかわしいおぞましく極めて恐ろしい破滅を言葉で表したり心の中で描いたりできる人など間違いなくいないでしょう。旧約聖書にある善良な臣下であるダビデのこの逸話によって、大切なことについてのすべてがわかると思います。
新約世界にみる権力への服従~マリア
新約聖書では、救い主キリストの母である祝福されたおとめマリアの逸話がまずもって挙げられます。ローマ皇帝アウグストゥスからユダヤ人に勅令が発せられ、自分の住み処のある町に住民登録をしてそこに税を納めるようにとされたときのことです(ルカ2・1~2)。この祝福されたおとめは神の愛に大いに包まれていて、なおかつユダヤ人の昔からある正統の家系に属していたのですが、異教徒とはいえ神が定めて置かれた君主によるこの勅令を蔑んで従わないということはしませんでした。彼女は身重でもうすぐ子を産むところでしたが、それを言い訳にすることもなく、またナザレからベツレヘムへの長く辛い旅は税を納めるためであったのにこれを恨めしく思うこともありませんでした。さらには、特に彼女のような身重の女性にはただでさえ長く辛い旅であったにもかかわらず、十二月も終わりに迫り冬の寒さの厳しい時季に苦しみながらも、この旅を受け入れました(同2・4~5)。言い訳などまったくせずに彼女は勅令に服従して定められた土地に着いたのですが、そこに着いてみると多くの人が宿もなく過ごしており、彼女も長く辛い旅のあとで疲れたので厩を宿とし、そこで祝福されたみ子を産んだのでした(同2・6~7)。これは同時に、どれだけ時宜に適って彼女が旅をしていたのかを示すものです。
新約世界にみる権力への服従~イエス
この極めて高貴で美徳に満ちた女性が異教の君主に服従したことから彼女に比べれば極めて低くて卑しいわたしたちが学ばねばならないのは、いわんや正統の恵み深い君主に対してわたしたちがどのような服従を見せるべきであるかということです。マリアのこの逸話では、異教徒の君主が強いた頑迷なまでのユダヤ人の国すべての服従のありようを見ることができます。しかしこれによって、正統にして恵み深い君主に従おうとしないキリスト教徒は、わたしたちがあらゆる人々のなかでもっとも劣っているとする頑迷なユダヤ人よりも実のところはるかに劣っているということが言えます(ルカ2・3)。これ以上に、わたしたちの君主であり救い主であるキリストの逸話は、わたしたちキリスト教徒にとってより強い力を持つものです。キリストは神のみ子であられながら、ご自身がこの世にあられたときには世俗の権威を持っていた人々に恭しく従い(マタ17・25、マコ12・17、ルカ20・25)、反乱を起こそうなどと考えもなさらず、異教の君主であったローマ皇帝に服従することをユダヤ人に説き、使徒たちにも同じようにするようにとされ、ついには異教徒の生まれであるポンテオ・ピラトの前に引き出され(ルカ23・1)、ユダヤ人の王とされました(マタ27・28~29、ヨハ19・20~21)。キリストはご自身の権威と力が神に授けられたものであることを知りながら、ご自身に向けて不当にも宣告された極めて痛ましく辱められた死の判決に忍耐強く服従され(マタ27・26、ルカ23・24~25)、しかし恨むこともなさらず、一言も罵りの言葉を出すこともなさりませんでした。
まとめと結びの短い祈り
新約聖書の中には、たとえ邪悪な君主に対してであっても君主への服従についての逸話は他にもたくさんあって、不服従で反乱を起こす人々を戒めています。しかし神のみ子であり万物の主であるイエス・キリストについてのいまお話した逸話ほど、わたしたちキリストに仕える者たちに対して大切なことを説いているものはありません。たとえ異邦人であったり邪で過ちを犯す君主であったりしても、神がわたしたちの罪のために置かれた君主であり服従するべきであるということです。間違いなく説かれているのはこういうことです。正統にして恵み深い君主に服従せず反乱を起こす者は、自称や他称がどうであれ真のキリスト教徒などではありません。むしろユダヤ教徒よりも、また回教徒よりも邪悪な者であり、キリストが服従によって真のキリスト教徒のために贖われた天の国を享受して、王の中の王であり神がキリスト教徒に授けられた君主であるキリストに服従することはできません。天の国はキリストに服従する臣下すべてにとっての特別な場所であり、天の父である神に祈り、イエス・キリストによってわたしたちが賜わることのできる場所であるのです。神に、聖霊とともに、すべての賞讃と誉れと栄えがいまもこれからもありますように。アーメン。
今回は第二説教集第21章第2部「茨の冠を載せられても」の試訳でした。これで第2部を終わります。次回は第3部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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