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私を離れては何もできない(1)(第二説教集20章2部試訳1) #186

原題:An Homily of Repentance, and of true Reconciliation unto God. (悔い改めと神との真の和解についての説教)

※第2部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(22分33秒付近から33分23秒付近まで)



第1部の振り返り~悔い改めの要素

 親愛なるみなさん、ここまででみなさんは悔い改めの教義がどれほど大切で意義深いものであるかを知りました。聖書の全体を通して、古い時代の預言者たちや救い主イエス・キリストとその使徒たちによって、この教義がどれほど熱をもって伝えられているかを知りました。わたしたちが罪を犯して離れてしまった神に人格のすべてをもって立ち帰るということについて四つの点からお話しました。どこから、つまり何から立ち帰るべきであるのか、誰に立ち帰るべきであるのか、誰によって立ち帰るのか、そして立ち帰ることは意義のあることであり、望ましくはどのようにして立ち帰るべきであるのかということでした。みなさんはまた、神のもとに来て救い主イエス・キリストに接がれながら悪魔の誘惑によって肉的な過ちを犯し、何らかの忌むべき大きな罪に落ちた人は悔い改めようとしてもそうできないとする考え方は世に害を与えるということも知りました。そして気をつけねばならないのは、自身の邪さや罪によって離れてしまった主なる神に対して、わたしたちが自身の力や強さによって立ち帰ることができるなどと考えてはならないということです。したがってみなさんにはっきりとお伝えしなければならないのは、悔い改めをするにおいての大切なこととは何で、どのようにしてわたしたちは悔い改めて主なる神へと一路に立ち帰ることができるのかということです。すでにお話しておりますように、悔い改めとは真に神に立ち帰ることです。そうして人間は邪な偶像崇拝を完全に捨て、生ける信仰をもって真に生ける神を知って愛して崇敬し、あらゆる善の行いを為すなかでみ言葉によって自身がみ心に適うことを知ります。悔い改めは四つのものから成るのですが、それらは昇りやすい梯子のように見ることができます。それによってわたしたちは破滅という底知れぬ奈落を出て、神への日々の反抗など大きな罪からわたしたち自身を救い、永遠にある救いの宮へと至ることができます。

その1~心からの告解

 第一は心からの告解です。わたしたちは自身の罪を深く悔い、罪によって無辺のご慈悲を持つ神に大いに反抗していることをはっきりと嘆かなければなりません。神はわたしたちを深く愛してくださり、たった独りのみ子を極めて苦々しい死に向かわせられ、わたしたちの贖いと救いのためにその貴い血を流すようにされました。これを嘆き悲しんでいるのは罪の大きさゆえであると心に留めるべきであり、聖なる預言者ダビデが「わが主よ、私の唇を開いてください。この口はあなたの誉れを告げ知らせます(詩51・17)」と言うように、心から揺らぐことなく神に向かうべきです。

み言葉を軽んじてはならない

 しかし、これがわたしたちのなかで起きるためには、そもそもの不浄さと生の大きな罪深さがわたしたちの目に極めて明らかに現れるために、勤勉に聖書にある神のみ言葉を読んでそれに耳を傾けなければなりません。わたしたちが自分の罪をよくわかっていなければ、どのようにしてそれを心から悲しむことができるというのでしょうか。思い出してほしいのですが、神のみ言葉を預言者ナタンの口からきいたとき、ダビデは自身が犯した不貞と殺人を、どれほどの重さをもってみていたことでしょうか(サム下12・13~14)。彼が自身の罪の中で眠るのと言われるかもしれないというのにです。わたしたちは『使徒言行録』の中で、人々がペトロの説教を耳にしてそれに心を打たれたということを知っています(使2・37)。もし人々がペトロの説教すべてを聞いていなかったらこのようにはならなかったでしょう。神のみ言葉を読もうともせず、またそれに耳も傾けようともしない者には、梯子の最初のところを昇ろうとして足をかけるという見込みは少なく、むしろ破滅という底知れぬ奈落へと深く落ちていってしまうことになります。人間はどんな時でも、自身に突き刺さる良心の痛みによって内なる嘆きや悲しみや罪の重さを知るのですが、そのときには神のみ言葉に救いと慰めを求めるべきです。そうせずにみ言葉を軽んじれば、自身を完全な絶望に至らせることになります。

その2~揺るがぬ告白と罪の自覚

 第二は、神に対する揺るがぬ告白と罪の自覚です。わたしたちは深く罪を犯したことによって神から離れたのであり、神がご自身の正義によってわたしたちを処されるとすれば、わたしたちは、もしそれだけの数があるとしたら千の地獄に行くに値します。わたしたちが悲しみと悔恨に満ちた心で神に対する罪を確固として告白すれば、神は広いみ心をもってその罪を赦され、わたしたちに邪さがあったことをご自身の記憶から消し去られ、それ以上は不問に付されます(エゼ18・27)。これについては聖なる預言者ダビデの金に輝くこのような格言があります。「私はあなたに罪を告げ、過ちを隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました(詩32・5)。」このことは福音記者ヨハネの言葉にもあります。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます(一ヨハ1・9)。」告白の言葉は神に向けられるものです。聖アウグスティヌスの言葉に「神に向けた告白は神の律法において求められている」というものがあり、これは使徒ヨハネが言うさきほどの「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます」という言葉によるものです。こういった告白なしに罪が赦されることはありません。これは聖書にある神のみ言葉において私たちがそうするようにとされている最も大切な告白であり、これなしにわたしたちが神による罪の赦しを得ることはありません。ただし実のところ、これのほかにも大切であり欠かせない告白のかたちがあります。

互いに罪を告白し互いに祈り合う

 その告白のかたちについて聖ヤコブは「癒されるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい(ヤコ5・16)」と言っています。彼がここで言っているのは、自身の悲しみとなっていることを他者に見せることによって癒しが得られるということです。これは苦しみを述べる側とそれに耳を傾ける側との両方に求められているもので、一方がもう一方に自身の悲しみを見せるということです。この真に意味するところは、信仰深い人であるなら憎しみや嫌悪や恨みや悪意によってお互いの間に起こる罪を自覚できるはずだということであり、神に受け入れられないものを持ちさえしなければ、兄弟愛をもった和解を持つことができるということです。これは救い主イエス・キリストご自身が「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさい(マタ5・23~24)」と言っておられるとおりです。これはまた、わたしたちは互いの不確かさを知った上で、天の父である全能の神に心からの祈りを共に献げることができるようになるために、自身の虚弱さや不健康を互いに告白するべきであると読み取ることもできます。神はそのみ業によってすべての人に報われるとき、み子イエス・キリストを通してわたしたちの不健康を受け入れられるのであり、そのような弱さをわたしたちの側にあるがままとはなされません。

信徒も聖職者の罪を赦すことができる

神への反逆者は秘密の告解をし続けてこのところを歪め、自身を大いに欺き、恥ずべきことに他者をも欺いています。というのは聖書のこの箇所がよく踏まえられているならば、秘密の告解の場で信徒が聖職者に対して自身の告白をするように、聖職者も信徒に対して自身の告白をするべきだからです。祈りとは免罪であり、聖書のこの箇所によるならば、聖職者が信徒の罪を赦す権能を持っているのと同じく、信徒も聖職者の咎を免ずる権能を持っていることになります。ドゥンスとも呼ばれるヨハン・スコトゥスはこれについて、聖書の言葉を踏まえてこう書き残しています。「わたしにはヤコブがこの教えを与えた、つまり彼がキリストから授かったものとしてこう述べているとは思えない。というのは何よりも、彼がエルサレムの教会の唯一の主教であったとはいえ、どうして彼に教会すべてを結びつける権能があったというのだろうか。エルサレムの教会はかつてすべての教会の頭であったので、彼は主教の頭であったということになるが、このようなことをローマの大司教が認めるはずはないだろう。」このことは謙虚さを求める「互いに罪を告白し(ヤコ5・16)」という言葉から理解することができます。これによって彼は「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません(一ヨハ一・八)」とあるように、わたしたちに、自身が罪人であると隣人に対して余すところなく告白するようにとしています。

秘かな告解にはみ言葉の裏付けがない

 しかし神の反逆者は、救い主イエス・キリストが病に苦しむ人に「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ(マタ8・4)」と述べられていることを引き合いに出し、秘かな告解が神のみ言葉においてあるのと主張しています。彼らはこれが既定の病から人が清められた後の言葉であるとは知らないのでしょうか。キリストによって祭司のもとに行かされる前に、この病人は自身の身体をキリストに見せなかったでしょうか。これと同じく、わたしたちは心の病を清めていただくべきです。言い換えれば、聖職者に告白する前にわたしたちの罪は赦されているはずです。そうして罪が取り除かれているというのに、わたしたちは聖職者の耳に自らの罪を語る必要があるのでしょうか。かのアンブロシウスは、詩編第百十九編についての第二の説教のなかで、行って祭司に体を見せるようにと大いに述べています。「メルキゼテクに連なるとこしえの祭司(詩110・4)」とは誰でしょうか。この聖なる教父は、祭司も律法も新しいものとした上で、わたしたちの罪を取り除いてくださるほかでもない方を祭司とみるべきであるとしています。その方とはわたしたちのいと高き司祭であり、肉体と血を犠牲になされ、十字架につけられていったん命を落とされ、わたしたちの魂の病を清められ、ご自身のもとに来て真の告白をする人々の罪を洗い流された救い主イエス・キリストにほかなりません。秘かな告解には神のみ言葉による裏付けがなく、またコンスタンティノポリス総主教ネクタリオスがこれを制定したことも法に適っていなかったというのは極めて明らかです。

畏れをもって震えつつ告白をするべし

神によって定められたことはどれも人間の淫らさによって踏みにじられるのですが、人間の悪行が過去のものとなっても、それによって生まれたものは残り続けます。これは聖アウグスティヌスの言葉にもあります。「私の病を癒すことができるかのように私の告白を聞く人々をどのようにしたらよいものだろうか。好奇心を持った者ほど他者の生を知りたがりながら、自身の生を改めて善いものにしようとしない。なぜ彼らは私が何者であるのかを私から聞きたがり、自分が何者であるかを私から聞きたがらないのか。死すべき人間ならば霊魂のほかに何が自分の内にあるかを知っているのに、私のことについて私から話を聞くときに、私が真実を語っているかどうかを彼らはどのようにして判断しているのか。」もし秘かな告解が自身の生きた時代にあったら、アウグスティヌスはこのように書くこともなかったでしょう。彼が持っているような良心に導かれずにいても、わたしたちは畏れをもって震えつつ、真に悔い改める心をもって、神がみ言葉において定められているかたちでの告白をしなければなりません。疑いなく神はみ恵み深く義であられ、わたしたちの罪を赦され、あらゆる邪さからわたしたちを清めてくださります。わたしは誰かが良心において悩んでいるとして、学識のある牧師や副牧師や、その他の信仰に篤く学識のある人に助言を求め、そこで自身の良心からの悩みや苦しみを見せれば神のみ言葉による救いを授かることができると言っているのではありません。そのようなことは誰にとってもあまたの罪のうちの一つに数えられるものであり、盲目と無知の時代にあるかのように、真のキリスト教徒の自由に反するものであるのです。



今回は第二説教集第20章第2部「私を離れては何もできない」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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