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内輪で争うべからず(第二説教集21章3部試訳) #196

原題:An Homily against Disobedience and wilful Rebellion. (不服従と反乱を戒める説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(14分24秒付近まで)




第2部までの振り返り~反乱は悪なり

 この説教の第一部では、真の臣下であれば善良な君主に対してだけではなく邪悪な君主に対しても同じように服従するべきという聖書の教えについてお話をしました。そして第二部では、その教えについてやはり聖書から有名な逸話を紹介してみなさんに理解を深めてもらいました。その続きとして、この第三部でわたしがいくらかでもみなさんに理解してほしいことがあります。反乱は神に対してどれほど忌むべき罪であり、神の怒りはあらゆる反乱に対してどれほど激しく向けられ、反乱を起こす者の頭上にはどれほど恐ろしい災厄や罰と永遠の破滅である死が降り注がれるかということです。また、善良で従順な臣下が神の愛に受け入れられ、この世において神の大いなる祝福を受けるとともに、平和と平静と平穏を受け継ぐ者とされ、救い主キリストの功績によってどのようにして来世の命に与るのかということです。神に対する罪である反乱がどれほど恐ろしいものであるかは、その規模の大きさによるのではありません。盗みや強盗や殺人などのたったひとつの罪をもって反乱とは言われません。神と人間とに対する、君主と国家と民に対する、親や子や親類や友に対する、世の人々すべてに対するあらゆる罪の泥沼に沈むことによってそう呼ばれます。いわば、神と人間に対するあらゆる罪が重なって反乱と呼ばれるに至ります。神の御稜威に対する罪にかかわって言えば、反乱が起こるはじめにあるのが、ひたすらに服従が命じられ不服従や反乱が禁じられている神とその聖なる秩序や律法を軽んじることであるということを知らない人などいるのでしょうか。

悪魔は善良な人を唆して反乱に至らす

神の聖なるみ名への反乱によって為される不名誉に加え、神のみ名への宣誓をもっての、またその御稜威に照覧を求めた上での君主に対する誓いを破ることによって反乱者の間で毎日のように為される恐ろしい誓いや神の聖なるみ名への冒瀆があります。実際に自身が反乱者の中にいるか、あるいはその行いや誓いを外で耳にするかして、これを知らない人などいるのでしょうか。日常の働きにおいてするべきとされているあらゆる働きを反乱者は捨てていてそれに手をつけないままにしていながら、一方で反乱という忌むべき働きをして自分に心を許す者にもそうするようにと強いているだけではありません。反乱者が安息日を聖とせず、神殿である神の教会堂に集まらず、自分の邪さによって極めて恐ろしくも安息日を冒瀆して汚し、サタンに仕えて悪の行いを為すことによって安息日を主の日ではなく悪魔の日としていることを知らない人がいるのでしょうか。加えて彼らは、主の僕となってこのような反乱者の悪に抵抗するべく主の日に神殿である教会堂に集う善良な人々に、教会堂の外に集って鎧を身に着けさせようとしています。そうです、多くの反乱者は神の律法を記した石板の一枚目にある戒律のどの部分も破らず神に対する罪を為さないようにしながら、自らの偶像を守るために、また偶像崇拝を続けるために、つまり偶像による罪を犯すために反乱を起こしています。彼らが神をものともせず、聖なるみ言葉をばらばらに切り刻んで、それを自分の足で踏みつけていることはみなさんがご存じのとおりです。

十戒の後半は反乱を戒めている

 神の律法を記した石板の二枚目には人間に対して犯されるあらゆる罪が書かれているのですが、実はそれらがすべて反乱にかかわることであることに気付かない人がいるでしょうか。まず反乱者は国家の親とも言える君主に誉れを向けないばかりか、自身の両親にも不名誉と恥を向け、場合によっては縁者や友人にも恥を向けるとともに、自身の子や後継ぎに対してさえも不名誉を行います。盗みや強盗や殺人はあらゆる罪のなかでほとんどの人から最も疎まれているものであり、あまりに大きくあまりに害があるので、反乱者のほかにはどの人にもみられないほどです。極めて強欲な盗人や冷酷な殺人者がいるとしても、彼らが反乱を起こさない限りは、また彼らが数において多くない限りは、彼らの邪さによる破滅は割と少数の人にしか広がりません。しかし、反乱者は際限なく強盗や殺人を引き犯し、人々が他人の悪意や暴力から自身を守ろうとすることの元凶となるのであり、反乱者が数にして多ければ、その邪さによる破滅が多くの人々に広がることになります。    
 不貞や姦淫という邪を行うことに同意して実際にそうする者は極めて忌むべきであり、未亡人や他人の妻を力づくで押さえたり、乙女や女使用人の純潔を強引に奪ったりするのは極めて反乱者と似ていることではないでしょうか。彼らはどれほどにおぞましく忌み嫌われるべきでしょうか。これに加え、君主に対する忠誠や誓いを破る反乱者は恐ろしい偽証の罪に問われます。君主や助言者に述べられる中傷的な嘘によって、どのような偽りの色や偽りの理由を反乱者が反乱の外套にしようと企んでいるかを目にするのは驚くべきことであり、それは考えられうるあらゆる偽りの証言のなかで最も悪質で最も忌むべきものです。他人の妻や家や土地や所有物や使用人を欲しがることを反乱者になぞらえて言うならば、その者は自身が手にするものを誰にも渡さないということになります。

七つの大罪も反乱を戒めている

 このように、あらゆる神の戒律が反乱者によって冒瀆され破られており、考えられうるあらゆる罪が反乱の形で神と人間に対して犯されていることがわかります。そのような罪は七つの大罪という馴染みのある名をもって挙げるならば、傲慢と嫉妬と憤怒と強欲と怠惰と暴食と色欲であり、人間は反乱を起こすにおいて、また反乱者の中にあってこれらを目の当たりにすることになります。まず野心や欲望があります。これは傲慢のうちに入るもので、多くの人の心を反乱にかき立てるものです。ルシファーの傲慢と不遜から生じて、反乱を起こす臣下を君主の威光や重臣の知恵や国すべてのあらゆる貴族や忠実な臣民に対して逆らうに至らせるものです。嫉妬や憤怒や血を求めて人を殺めることや他人の所有物や土地や家に向ける強欲について言えば、あらゆる反乱者が必然的に犯す事柄であり、邪悪な者をしばしば反乱に向かわせる根源となるものです。
 放縦や暴食や暴飲や虚飾をして金遣いが荒い者は自身の財産を無駄に費やしていており、このような者が反乱を起こすことを大いに望んでいます。彼らは他人の財産を力づくで不法に奪おうとしています。大食漢や大酒飲みは食卓に出された肉や酒をたくさん食べたり飲んだりするのですが、反乱者も短い期間で納屋や農場などをはじめ、あらゆる穀倉や倉庫や貯蔵庫にある穀物をすべて無駄に浪費し、羊の群れも牛の群れも食べつくしてしまいます。また、反乱者は結婚していても妻を家に残して不貞を為しますが、まして未婚の男性なら種馬よりも酷く、彼らをおとなしく繋ぎとめていた法を反乱によって自由に変えて定めます。力づくで他人の妻や娘や魅惑的な乙女や女使用人を好き放題に目を覆うばかりにおぞましく辱めることになります。

反乱の後にはあらゆる災厄が起こる

 このようにあらゆる罪は、名を付けられるすべての罪によって、またあらゆる罪が犯されるすべての手段によって、反乱に続いてやって来て反乱者の間で見つけられます。聖書のなかでは、疫病や飢饉や戦争がこの世で起こりうる最も大きな災厄であり悲惨であるとされていますが、そういった災厄が持つものはすべて反乱に続くものであり、その中に、あらゆる悲惨もさることながら、それ以上の罰があります(サム下24・14~15)。
 大勢の人々が集まって一緒になり、真の臣下と反乱者が寄り合って反乱を起こせば、彼らがともにいるところの空気と場所の腐乱ぶりはどうなることでしょう。いつも不十分な食事しか与えられず、飢饉で肉も飲み物もなく、かと思えば大いに食べ過ぎることもあり、冬の寒く湿った日に不健康な状態で地面に横たわりながら暑い日の糞尿のようになるというのはよく知られていることです。災厄や疫病に加え、あらゆる病や悪弊が人々の間で大きくなり、それによって戦場で突如として刀の一振りによって殺められるよりも多く人の命が失われることはよく知られています。疫病に限らず多くの病や悪弊が反乱に続いて起こります。

反乱は外敵との戦争よりも悪辣である

反乱とは神から直接わたしたちに向けられた災厄や疫病や病気よりもはるかに恐ろしいものであることをあとでわかりやすくお話をします。空腹や飢餓は特に反乱とともに起きます。反乱者は短い期間で人が次の一年を過ごすために苦労して育て手に入れたあらゆる穀物など大切な食糧を浪費します。また次の一年の食糧を育てるべき農民を含めたすべての人を農作業など必要な仕事から遠ざけます。反乱のすぐ後には極端な飢餓や空腹が続いて起こるということを理解できない人などいるのでしょうか。賢明な王にしてみ心に適った預言者ダビデは、争いを飢饉や疫病よりも悪いものであるとしました(同24・13~14)。それは、この二つが人間を改心させるために神から与えられたものであってそれ自体が罪であるわけではないものの、争いには対立する人間双方の罪や過ちがあるからです。争いはこの世にあるあらゆる過ちの中で最も大きなものです。しかしあらゆる争いの中で内戦が最も悪いものであり、その内戦の中でも反乱は特に悪いものです。反乱には戦争という名が似つかわしくはありません。悪辣さのすべてにおいて、過ちのすべてにおいて、忌避のすべてにおいて、反乱は戦争よりも酷いものです。それゆえ救い主キリストは反乱によって分けられた国について、破滅と破壊を宣告しておられます(マタ12・25)。

それは隣人が敵となるからである

 疫病や飢饉が反乱に続いて起こると先ほどお話しましたが、争いによって起こるあらゆる災いや悲惨や悪行は争いそのものよりもはるかに悪いものであり、したがってどんな争いよりも悲惨なものであるのは明らかです。争いがしばしば引き起こす悲惨や悪行は反乱の後にも起こりますが、穀物をはじめとして、人が生きるに必要なものが台無しになり、家も村も町も都市も奪われて荒らされ、焼かれて破壊されるだけではありません。多くの裕福な人は言うに及ばず、国全体が貧しくなってほとんど乞食ばかりのようになり、かなり多くの男が殺害される上に、女は使用人たちを含めて暴行を受けてその花を散らされます。こういったことを外敵によってされてしまったら当然ながらわたしたちは心から嘆き悲しむことになりますが、それでもまだこのようなあらゆる悲惨がわたしたちの国に住む隣人の悪行によってもたらされているわけではありません。このような悪行が反乱の中で、友人であるべき隣人によって、郷土の人や血縁のある人によって、つまりは本来ならばそのような悪行から郷土やそこに住む人を守るべき人によって為されたらどうでしょう。その悲惨さは、不法にも臣下が本来ならば自身の命に代えてその名誉と命を守るべき君主に対して反乱を起こすときの悪行や邪さと同じく大きなものであるに他なりません。

反乱はあらゆる美を失わせる

その土地に住む人が自身の命に代えてその平穏さを守るべき郷土の平和と平静をかき乱し、兄が弟の死を求め息子を持つ父親が息子の死を求めて、息子が程よい年齢に達したら何か過ちを見つけて、息子から受け継ぐはずの無垢な子どもの相続を永久に無効にすることと同じです。息子がその無垢な子どものために家屋と土地を買い、実の親として苦労して手をかけ、莫大な費用をかけているというのにもかかわらずそうするのです。反乱による悲惨はこの世のいたるところで、祝福された平和や為すべき務めによって起こるあらゆる平穏さや喜びや至福ではなく、あらゆる過ちによる悲しみや心身の不穏や害悪や災厄をもたらし、あらゆる善き秩序を転覆させてあらゆる善き法律を軽んじて足蹴にします。あらゆる美徳や誠実と、徳を持った誠実な人を抑圧し、あらゆる悪徳や邪さと、悪徳に満ちた邪な者に自由を与えてしまいます。かつてはあらゆる法律によって手綱を保たれていた邪な意思を働かせ、君主と国家が持つ財産や財宝を湯水のように使い、外敵の侵攻から君主の名誉や郷土の自由を守るべき国民を殺害し、自身が拠って立つべき国土の力を削いで弱体化させ疲弊させます(箴14・28)。自身の悪行によりついには自身の国を弱め、侵攻してくるすべての外敵にとっての餌食とならしめ、生き残ったすべての国民とその子どもや友人や近親者を永遠の虜囚や奴隷となさしめて破滅させます。邪な反乱によって多くの人が外敵の手に渡され、その中で生きることになります。

反乱の勝利に栄光なし

 外敵との戦争において国の民は勝利を得れば賞賛を勝ち取りますが、負けて命を落としても、彼らはこの世で心からの賞賛を得て、神や君主や国に仕えた良心をもって亡くなり、永遠の救いをもった子となります。しかし反乱においてとなれば、たとえ勝ったとしてもどれほどの破滅が待っていることでしょうか。彼らは恥ずかしくも神や君主や自身の国と戦って恥と恐怖の中で生きるのであり、たとえ死を免れたとしても死後は地獄へと真っ逆さまに落ちます。
 多くの場合、彼らは恥ずべき死という報いを受け、埋葬することを許されず、頭も四肢も柱に括り付けられたり鎖で吊るされたりして烏などの鳥についばまれるままとなります。彼らの魂も同じく、もっとも彼らは悔い改めることなどありませんが、悔い改めない限り悪魔が彼らを悲惨の只中にある地獄へとかき立てます。この恐ろしい刑罰にかかわっては、聖パウロが死への恐怖によってだけではなく神への良心を踏まえ、来世における永遠の破滅への恐怖を示して服従の大義を示しています(ロマ13・2)。

まとめと結びの短い祈り~反乱は破滅

 善良なるみなさん、服従の子となって神の恐ろしい刑罰を恐れ、穏やかな服従の中に生きて、永遠なる救いの子となろうではありませんか。天は善なる従順な臣下のためのところであり、地獄は神や君主に反乱を起こす者の牢獄であり獄舎です。臣下の服従が大いに見られる国が幸せであるのは、それが天の国と同じ姿であるからです。これと反対に、反乱が見られ反逆者が蔓延る国が地獄を写したようであるのは、反逆者がまさに仇である悪魔の似姿を持っていて、その頭目であり暗黒の王であるルシファーやサタンのおぞましい姿をとっているからです。反乱に従う者は地獄にある破滅を疑いなく受け継ぐ者です。疑いなく平和の子であって、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神とともに、天を受け継ぐ者となりましょう。神にすべての誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。



今回は第二説教集第21章第3部「内輪で争うべからず」の試訳でした。これで第3部を終わります。次回は第4部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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