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偽預言者に注意せよ(3)(第二説教集2章3部試訳3) #93

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は10回にわけてお届けしています。その3回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(22分52秒付近から35分36秒付近まで):


偶像は命を持たないものである

 第一に、わたしたちの側にある偶像と異教徒が持つ偶像とが、それ自体として同じものであるということは極めて明らかです。異教徒が持つ偶像がそうであるように、どれも金や銀や金属や、石や木や土くれでできています。溶かして鋳型を取られたり、削られたり彫られたり切り取られたりして形を整えられ、そののちに男や女の似姿とされています。そもそも人間の手による命を持たないもので、口がありながら話さず、目があっても見ず、両の手があっても触れず、足があっても歩かないもので、異邦人の彫像とまったく変わりのないものです。それゆえに、聖書に書かれている呪いのようなあらゆる災いのほかには何も、それを造る者や拝む者に向けられるものはありません。

異教の偶像崇拝を模してしまっている

第二に、そのようなものがこれまでにも、またわたしたちのこの時代にも、かつて異教徒の偶像に対してあった作法で崇拝されてきているということが明らかになっています。そのような偶像崇拝がわたしたちの心の中に存在しています。この説教の第一部でお示ししているように、わたしたちのなかにいる偶像を正当化する者たちは、偶像崇拝をする異教徒が彼らの神々に対してしていたのと考えを同じくして、聖人たちの偶像を造って崇拝してきました。あとで詳しくお話しますが、偶像を正当化してそれを崇拝する者たちは、異教徒が使っていたのと同じ儀式めいたものをもって、偶像に誉れをむけて崇拝する作法を持っていました。彼らは偶像崇拝を行う邪な異教徒がそうしたように、内面的にも外面的にも偶像崇拝を犯しています。

聖人崇拝と異教の神々その1

 さて、偶像を正当化する者たちが偶像崇拝をよしとする考え方をみてみましょう。わたしたちが護りを乞う聖人たちに、わたしたちとともにあってほしいと願って神に向けるべき誉れを向ける先は、異教徒の偶像崇拝者にとってのディー・デウテラレスだけでしょうか。そのようなものはバビロニア人やアッシリア人にとってのベルスであり、エジプト人にとってのオシリスとイシスであり、レムノス人にとってのウルカヌスといったものです。さまざまな都市の護りが委ねられる聖人たちについては、異教徒の偶像崇拝者にとってのディー・プラエシスだけでしょうか。そのようなものはデルフォス島においてのアポロであり、アテネにおいてのミネルヴァであり、カルタゴにおけるジュノーであり、ローマにおけるクイリヌスといったものです。

聖人崇拝と異教の神々その2

初期教会のあり方に反して寺院や教会堂を建てて祭壇を高くしたのは、異教徒の偶像崇拝者にとってのディー・パトローニのほかに、どの聖人に対してであったのでしょうか。そのようなものはカピトルにおけるジュピターであり、パフース神殿におけるヴィーナスであり、エフェサス神殿におけるダイアナなどです。ああ、このように考えて名を挙げていると、わたしたちは神の御言葉からではなく、異教の詩人から教義を学んでいるように思えます。「エクセレ・オムネス・アディティス、アリスク・レリクティス、ディー、クイブス・インぺリウム・ホク・ステテラート」というものです。「その守護によってこの帝国があるものの、すべての神々は、神殿の外に出られ、祭壇をお見捨てになられた」という意味です。ユダヤ人にとってのこととほとんど同じく、ひとりの聖人が多くの場所にその像を立てられているので、同じ聖人であるのにたくさんの名前を持っています。ウォルシンガム婦人と耳にするのがイプスウィッチ婦人であったりウィルスドン婦人であったりとするようなものです。

聖人崇拝と異教の神々その3

また、異教徒の偶像崇拝者が行う改称のほかに何があるというのでしょうか。アグロテラのダイアナ、コリフェアのダイアナ、エフェソのダイアナなどがありますし、キプリアのヴィーナス、パフィアのヴィーナス、ニディアのヴィーナスがあります。これによって明らかに意味されるのは、その像のための聖人がそのような地域において、もっと言えばその像そのものにおいて、住み処を持っていてそこが彼らの偶像崇拝の場となっているということです。それゆえ、偶像のないところにはそのようなことなどないのです。テレンティウス・ウァロは、自分の生きた時代には三百のジュピターがいて、それを下回らない数のヴィーナスやダイアナもいて、さらにそれと同じくらいの数の聖クリストフォロスや婦人たちや、マグダラのマリアや聖人たちがいたと言っています。オイノマオスとヘシオドスは自分たちの生きた時代には三万の神々がいたと言っています。神に向けるべき誉れを向けられた聖人たちもそれと同じくらいいたでしょう。

聖人崇拝と異教の神々その4

偶像崇拝をする異教徒が造ったのと同じような造りものを人々が持って、地上の神殿や都市や国で誉れを向けるべき真の生ける神を捨てただけでなく、海や水にあるものについても、異邦人たちがそうしたように特別な聖人たちを持つに至りました。ネプチューン、トリトン、ネーレウス、カストルとポリュデウケス、そしてヴィーナスといったもので、そこに、聖クリストフォロスや聖クレメンス一世などのあまたの聖人たちと、船乗りたちが「めでたし、海の星」と歌う、わたしたちが敬愛するかの女性がいます。火についても偶像崇拝的な造りものを免れませんでした。異教徒の火の神であるウルカヌスとウェスタにかわって、わたしたちのなかには聖アガタをあてて、その聖日に火を消すための手紙を書く者もいます。

聖人崇拝と異教の神々その5

細工師にしても知識人にしても、誰かしら聖人を特別な神としています。キリスト教徒のなかでも、例えば学者たちは聖ニコラスと聖グレゴリウスを崇め、画家たちは聖ルカを崇めていますし、兵士たちにはマルスが、恋人たちにはヴィーナスが欠かせません。あらゆる病について、特別な聖人たちがそれを癒してくれる神々であるとみなされています。湿疹には聖ロクスが、癲癇については聖コルネリウスが、歯痛には聖アポロニアがそうであるとされています。聖エリギウスはウマビルに、聖アントニウスは豚にといったように、獣や家畜にも神々は欠かせません。神の摂理や神に向けられるべき誉れはいまどこにあるのでしょうか。

人間は狂気と邪悪に堕ちている

「天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである(申10・14)。」「あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます(詩36・8)。」「もし、主が町を守るのでなければ、守る人は虚しく見張ることになる(同127・1)。」「野にうごめく虫も私のもとにいる(同50・12)。」しかし、わたしたちは天も地も水の中も、争いなく平和に治めるべき国も街も神に委ねることをせず、人間や獣の病を癒すことも神に委ねていません。信仰深い人であるならば、「ああ、天よ、ああ、地よ、海よ、神に反し、人間はどれほどの狂気と邪悪に堕ちているのでしょうか」と、ただ激しい怒りをもって叫ぶことでしょう。

聖人を神と同じくする人間たち

被造物が創造主に対して、どんな不実を為していることでしょう。折に触れて神を思うとしても、神の御力や御心に疑いを持って、神をただの呼び名として、他の何物かに重ねてしまっています。たとえば学識に関して、神と聖ニコラスに成功を祈り、くしゃみをするとき、神に加えて聖ヨハネの名を口にし、馬については神と聖エリギウスが守ってくださるといった具合にです。そうであるから、わたしたちはまったく知恵のない馬や騾馬のようになっているのです。

すべてのものは神から出て神に向かう

 万物を力と知恵によって創られ、摂理をもって治め善性をもって護られるのは、神のみであるのではないでしょうか。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている(ロマ11・36、エフェ4・6)」のではないのでしょうか。みなさんはなぜ創造主を離れて被造物に目を向けるのでしょう。そのようなことは偶像崇拝を行う異教徒のすることです。キリスト教徒であるみなさんは、キリストのみに父なる神への執り成しを得て救いを得るのです。聖書のこの箇所は、神に真に仕えてすべての誉れを神に向けて自らには何も求めず、そうして魂を神に祝福されている聖人を非難するために書かれているのではありません。そうではなく、神に真に仕えるどころか偽りの神々を造り、神のものであり神のみにあるはずの御力や誉れを聖人に向けるわたしたちの愚かさと邪さを戒めるべく書かれています。

聖人崇拝は偶像崇拝と同じ偽りである

聖人の力を信じてその助けを求めようと、聖餐式での聖人伝や讃美歌では、逸話に基づく聖人たちへの讃美や賞讃に加えて、聖人への祈りが含まれています。それらを一緒にして説教としており、明らかに神の御言葉がわきに置かれ、聖人に賞讃が向けられています。わたしたちはこのようなことを、異教徒が偽りの神々に対して偶像崇拝を行うように聖人に対して行っています。決して神と同じではない死すべき人間に対して人間がこのように信を向けることにかかわっては、古い時代の極めて信仰深く学識のあったキリスト教徒は異教徒の偽の神々を否定する書物を残し、キリスト教国の君主たちはその偶像を破壊しました。もし彼らが今この世にいたら、わたしたちが聖人に向けている偽りの信を否定するべく書物を世に出すでしょうし、聖人の像を破壊することでしょう。偶像を正当化する者たちが、異教徒が偽りの神々に対して持っているのと同じような信を聖人たちに向けていて、異教徒と同じように聖人を偶像化していることは明らかです。

聖人は神への仲保者ではない

この理由は明らかです。そのような者たちは聖人を神への仲保者として、自分たちが神に向かうための手段としているからです。言い換えますと、偶像崇拝を行う異教徒に倣い、聖人を神々としてディー・ミディオクシミ、すなわち、神への仲保者としているのです。あたかも神には聞く耳がなく、すべてをおひとりでなさるかどうかも心許ないかのようです。異教徒が言うには、手段として他によってはたらくひとつの大きな力があるとのことです。そうであるから、異邦人はあらゆる神々を運命に結びつけるものとしました。ルキアノスが『対話』の中で、ネプチューンがマーキュリーに対し、ジュピターと話したいと懇願することを作話したようにです。ここにおいてもやはり明らかです。偶像を正当化する者たちは偶像崇拝を行う異教徒とまったく考え方を同じくしています。

聖人崇拝は偶像崇拝につながる

 さて、三つ目のことが残っています。彼らの儀式や典礼は、聖人の偶像に誉れをむけて崇拝するものであり、偶像崇拝を行う異教徒が偶像に誉れを向けることとまったく同じです。キリスト教徒が偶像崇拝を行う異教徒に倣って、さまざまな偶像を目当てにしてそれらのあるところを巡礼し、偶像崇拝を行う異教徒が持っていた以上に聖性や美徳の観念をいくつかの像に対して持っているというのはどういうことなのでしょうか。そういったものを崇拝することが彼らを偶像崇拝へと導いていく最も手っ取り早い方法であるのですが、神の御言葉には明らかに反するものです。

まことの礼拝をする時がくる

「私を求めよ、そして生きよ。しかし、ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな(アモ5・4~5)。」そういったさまざまな土地が持つ聖性に関するあらゆる迷信に対しては、次のように書かれてあることを銘じておくべきです。「『私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』(ヨハ4・20~21)」「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る(同4・23)。」

聖地巡礼も偶像崇拝につながる

 しかし、そのような巡礼を行うことによって、父なる神や救い主である御子キリストが霊的に真に崇敬されるのではなく、ヴィーナスとその息子であるキューピッドが肉的に浮かれ騒いで崇拝されました。
 聖パウロが説いているように、霊的な姦淫である偶像崇拝に堕ちる者たちは、神の正しい裁きにより肉的な姦淫とあらゆる不浄に堕ち、「互いにその体を辱める(ロマ1・24)」ことになります。

偶像の前に跪く人間の愚かさ

 キリスト教徒が偶像崇拝を行う異教徒と同じく、偶像の前で帽子をとって跪くというのはどんなことを意味するのでしょうか。もし彼らに何らかの感謝の念などがあるとしたら、人間の前で、すなわち、大工や石工や石膏職人や鋳物師や金細工師といった、造り手である職人の前で跪くことでしょう。偶像は職人の手腕をもって誉れを得ているのであり、そうでなければ悪の匂いがする厚顔無恥な土や石膏や木や石や塊、ないしは木や石や金属のかけらであったにすぎません。形もなく誉れもなく、異教の詩のなかで偶像が「わたしはかつて卑しい石でしたが、いまわたしは神になっています」と吐露するようなものです。命と理性を持つ人間が、人間の手によって造られ何の感覚も持たない死した偶像に額ずくとはなんと愚かなことでしょうか。偶像の前で身をかがめて跪くというのは、偶像に礼拝を捧げることで、これは神の御言葉によって固く禁じられているものではなかったでしょうか。聖人の像の前で跪くことは、死した棒切れや石に誉れを向けていることになると知りましょう。

使徒も天使も崇拝されるのを拒んだ

聖人であるペトロやパウロやバルナバは、生きていても誉れを受け取ろうとはしませんでしたし(使10・25~26、同14・14~15)、神の天使も同じようにそれを禁じています(黙19・10)。もし彼らが、自分たちは誉れを偶像に向けているのではなく、偶像を通して聖人に向けているのであると言うのならば、彼らは愚かであると言えます。というのは、彼らは誉れをもって聖人を喜ばせていると信じるものの、このことは神の誉れを汚すものであるとして聖人が忌み嫌うことであるからです。聖人は愚か者ではありません。神をより善く知り、神への燃えるような愛のゆえに、向けるべき誉れを神に向けないことを忌み嫌っています。神の天使も、神に向けられるべき誉れを奪って神聖を冒瀆するなどということをしません。したがってここに、ラトリアとデュリアの卑俗な区別が論駁されることになります。ここで明らかなのは、表面だけの崇拝が行われ、それが自分たちに向けられることを聖人が受け入れるはずがないということです。

サタンは崇拝されることを望んだ

しかし神の敵であるサタンは、神から誉れを奪おうとして、神の誉れが自分に向けられることをことのほか強く望んでいます(マタ4・8~9)。創造主に向けるべき誉れを、何かしらの被造物に与える者たちは、神の友であるどの聖人にも受け入れられない行いを為していて、むしろサタンという神と人間にとって滅びるべき不俱戴天の敵が喜ぶ行いを為していることになります。高いところにあるべき誉れへの願望が聖人たちにあるとすることは、極めて憎むべき悪魔的な恥辱や悪辣さで聖人たちを汚すことであり、神にのみ向けられるはずの誉れを自分のものにすることを強く意図するサタンなどの悪魔に聖人たちを貶めるものです。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳3でした。長くなりました。次回は試訳4をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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