命の向き直しをせよ(第二説教集20章3部試訳) #189
原題:An Homily of Repentance, and of true Reconciliation unto God. (悔い改めと神との真の和解についての説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(40分45秒付近から)
第2部の振り返り~悔い改めの深みへ
救い主キリストに愛されるみなさん、この説教のさきほどのところで、みなさんは悔い改めの形や徴について知りました。一つは心から告白をして深く嘆くことでした。二つには自身が神のみ前で生きるに相応しくないことを踏まえつつ、口から揺るぎのない告白をすることでした。三つには救い主キリストに赦しを求める確たる信仰を持つことでした。そして四つには神のみ恵みによってそれまでの邪な生を棄てようという意図を持ち、新しい生において堂々と神に向かい、そのみ名を栄えとし、隣人の慰めのために、あらゆる義において純粋に愛をもって生きることでした。言葉と行いにおいて謙遜と節制をもってこの地にあるすべての人々を悔い改めさせるべく、わたしたち自身においても控え目に慎ましく生きるべきであるのです。さて、こういった悔い改めの形についてみなさんにさらに知ってもらうべく、わたしはこれから、みなさんにますます悔い改めを深めさせていく元となるいくつかのものについてお話します。
その1~神に立ち帰れ
第一に、聖書の多くの箇所で神は戒めを示され、わたしたちをご自身に立ち帰るようになされています。神は「イスラエルの子らよ、立ち帰れ、あなたがたが甚だしく背いてきて方に(イザ31・6)」と言われています。さらに「立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか(エゼ33・11)」とも言われています。また別のところでは、聖なる預言者ホセアを通して「イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまづいた(ホセ14・2)」と言われています。みなさんは神に立ち帰るときにこういった言葉を持った上で、神に対しては「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を献げます(同14・3)」と言うべきです。これらの箇所で、わたしたちは神に立ち帰るようにと神から戒めを直接に与えられています。ここで気をつけなければならないことがあります。わたしたちはすでに大きな罪や咎によって神の怒りを招いているのですから、こういった神の戒めを破れば二重に罪を犯すことになります。神のみ前で日頃から罪ある行いをすることで神をさらに怒らせてなおも自身の頭上に破滅を重ね、もし神がご自身の正義にのみ基づいてわたしたちを処されるとするなら、わたしたちは神の栄光という結実から永遠に引き離されるしかなくなります。わたしたちがこうした神への反抗ののちに愛をもって再び神に呼ばれて立ち帰るように命じられても、天なる父の声に耳を傾けずに、なおも心の頑なさに従って歩んでいたら、わたしたちはどれほど地獄での永遠の責苦を受けるべき者となってしまうことでしょうか。
その2~神の戒めと約束と慈悲を思う
第二に、主なる神はご慈悲と善性から、極めて慰めとなる甘美な約束をご自身の戒めに結びつけておられます。神は「イスラエルよ、もし立ち帰るなら私のもとに立ち帰れ」とされた上で、「憎むべきものを私の前から除くなら、あなたは決してさまようことはない(エレ4・1)」とされています。こういった言葉をわたしたちは預言者エゼキエルにも見ています。「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったどの背きも思い返されることはない(エゼ18・21)」とあります。神はご自身の約束に基づき、わたしたちの罪を寛容にも受け入れ、赦し、忘れてくださります。神の戒めを守りその甘美な約束に信頼を置くことによって、わたしたちは自身が犯した罪に囚われることなく、揺るぎなく神に立ち帰ることができると、わたしたちはここで十分なほどに教えを受けています。
その3~命の向き直しをせよ
第三に、わたしたちが罪の淫らさの中で生きてそれを清められない限り、神はわたしたちをただ忌み嫌われるだけではなく、天のエルサレムに入るという希望も失うことになります。しかしこれまでの生を棄て、心のすべてをもって主なる神に立ち帰り、命の向き直しをするという意思をもって、み子イエス・キリストの血への信仰を通して神の慈悲を求めそれに与ろうとするならば、この限りではありません。この世の君主がわたしたちの姿を目にすることを嫌って避けるとします。その場合わたしたちは自身の中に何らかの不浄さがあるのではないかと思ってしまいますが、どのようにして罪を取り除き、不浄さを捨て去ることができるのでしょうか。神とわたしたちを分け隔て、み顔を隠されてわたしたちの声を聞いてくださらないことの元である不浄な淫らさを、わたしたちはあらん限りのあらゆる勤勉さと速やかさをもって、どれだけより多く捨て去ることができているでしょうか(イザ59・2)。むしろ救い主であり贖い主である神の独り子の貴い血によって清められ贖われることに頼るだけで、実はこの不浄な淫らさを心の底から忌み嫌ってはおらず、あらん限りの熱心さをもってそれを遠ざけようとはしていないのではないでしょうか。
人は罪を直視してその悪辣さを知れ
プラトンはある著作の中で、美徳が肉体にある両眼をもってとらえられてしまえば、すべての人はそれを愛してやまないことになるだろうと述べています。また反対に、罪の淫らさやそれによる不浄を肉体にある両眼をもってとらえてしまえば、わたしたちは誰もそれを持とうとは思わず、目の前にあるそれを死に至る毒として嫌悪して避けることだろうとも述べています。わたしたちもこのことについての実体験を持っています。人は何か悪辣な罪や淫らで忌むべき罪を犯してそれが明るみに出てしまうと、あるいはそれをふと我に返ってよく考えてみると、あまりにも恥ずかしい心持ちになります。両眼の前に広がる行いの淫らさを良心で見れば、誰もが顔を隠してしまうものです。そうであるのですから、まして神のみ前に立つことなどできません。
その4~有限の生を思え
第四に、わたしたちの生が持つ不確かさと儚さは、一時間やそれに満たない時間などで捉えることなどできません。わたしたちは日々の経験から、これを間違いのないことであるとみることができます。いま陽気にしていて生気があって友人と会食や酒宴を行っている人が突如として路上に倒れたり、あるいは食事をしている最中に亡くなったりすることがあります。こうした日々の経験によって、わたしたちは良心をもって神のみ前にあるべきとする天の采配を極めて強く思うことができます。神がわたしたちを召されるのはいつも突然かそれに近いことで、わたしたちの生には不確かさや儚さしかありません。わたしたちは間違いなく死に定められているのですが、いつ死を迎えるのかを知ってはいません。わたしたちの生は神のみ手の中にあり、神はいつでもそれを取り去ることができます。死はまさに神にとって最も時宜に適ったときに否応なしにもたらされるのであり、わたしたちは神のみ心のままに神の裁きの座の前に引き出されます。聖書には「木が南に倒れても、北に倒れても、その倒れた場所に木は横たわる(コへ11・3)」とあります。このことについて殉教者である聖キプリアヌスは「神はあなたを裁かれるために、召されようとしてあなたを見い出されるのである」としています。わたしたちは「主に立ち帰るのを遅らせるな。一日一日と先延ばしするな。主の怒りは、突如として現れ、復讐の時、お前は滅びる(シラ5・7)」という、かの賢者の言葉に従うべきです。わたしはみなさんにいまから述べる言葉をよく覚えてほしいと思います。
悔い改めに遅い者となるな
ここには、神の広いみ心や善性を無にして悔い改めや命の向き直しを考えることのない多くの者たちの執着がありありと表されています。「自分の本能と力に引きずられ、心の欲するままに歩むな。『誰が私を支配できようか』と言うな。主は、必ずや罰を与えられるからである。『罪を犯したが何も起こらなかったではないか』と言うな。主は忍耐強いからである。罪の贖いについて大胆不敵になって罪に罪を重ねるな。『主の慈しみは豊かだから私の多くの罪は赦される』と言うな。憐れみも怒りも主のものであり、その憤りは罪人の上に下るからである(同5・2~6)。」みなさんはひょっとしたら、「あなたは強くて大であるのか、」「あなたは若く生気があるのか、」「あなたはこの世の富や財産を持っているのか、」「罪を犯しても、あなたはその罰を受けないというのか」などと言うかもしれません。しかし、このように言って悔い改めるに遅い者となるのではなく、速やかに神に立ち帰るべきです。劫罰と突然の復讐を受けるその日に、そういったことを言っても何の役にも立ちません。みなさんは神のみ言葉を説かれ、聖霊の働きを受けるなどして悔い改めに呼ばれているのですから、悔い改めようとしてもみ恵みに与らないということのないよう、授けられたこの良い機会を無にしてはなりません。悔い改めは神からの善き賜物であり、肉に生きてあたかも神のみ業や賜物が自分の意思に結びつけられているかのようにして神の怒りを軽んじ、思うままに神の霊に対しようとする者に与えられるものではありません。
その5~神に立ち帰る者は滅びない
第五に、神の災厄と正しい裁きによる完全な破滅を頭上に受ける者は、決して神に立ち帰った者ではありません。神はこう言われます。「私は彼らを、地のすべての王国のおののきと災いの種とし、また私が追いやるあらゆる所で、そしりと物笑いの種、嘲りと呪いの的とする。私は彼らの中に剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた土地から彼らを滅ぼし尽くす(エレ24・9~10)。」自らの心を頑ななままにする者が自身の悪行から立ち帰ることはなく、神がその激しい怒りをもって取り除こうとなされる邪さを自身の手から放すこともありません。これは地獄の業火という終わりなく耐えられない責苦のほかの何ものにも至るものではありません。心が頑ななまま悔い改めをすることのできない者がこれに定められているのであり、彼らは「怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えて(ロマ2・5)」いるのです。
まとめと結びの祈り
しかし、救い主イエス・キリストへの信仰を持って、神の慈悲を求めて命を向き直そうと心を堅く持ち、悔い改めて心から罪を恥じようとすれば、悔い改めによる果実がもたらされます。神は大いなる祝福をこの世にあってわたしたちに注がれるだけではなく、少なくともこの世の苦痛に満ちた旅路の後に、ご自身の子らが受け継ぐべきであるみ子イエス・キリストの死によってわたしたちに贖われた天の王国をもって、わたしたちに報いてくださります。キリストに、父と聖霊とともに、あらゆる賞讃と栄光と誉れとが、とこしえにありますように。アーメン。
今回は第二説教集第20章第3部「命の向き直しをせよ」の試訳でした。これで第20章を終わります。次回からこの説教集全体の最終章である第二説教集第21章に入ります。長い章です。まずは第1部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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