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コンプレックス・シリーズ

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コンプレックスのシリーズをまとめています! ノンフィクションの筆者の若い頃のハナシです!
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#エッセイ

コンプレックス 19

コンプレックス 19

■コンプレックス 19

この時代、結婚したばかりでもあったが二人でフルに働いていたので今までの人生の中で一番お金があったような気がする。
その日は、新宿歌舞伎町で呑んでいた。
メンバーは、ボクの先輩と後輩、ウチの奥さんのお店のスタッフの女性、そして我々夫婦の合計5名だったと思う。
妙な取り合わせだが、特に何か意味があったということでは無く、偶然派生した行きがかり的な展開だったと思う。
そうとしか

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コンプレックス 18

コンプレックス 18

■コンプレックス18

美空ひばりが東京ドームで復活コンサートを開催したのもこの時代である。
彼女が突然福岡済生会病院に入院したとき、日本中にこのニュースは大々的に放映された。
1987年4月のことで、コンサートツアー途中の出来事だったと記憶している。
病名は、両側大腿骨骨頭壊死、そして慢性肝炎・・・
いずれも治らない、不治の病気である。

当時はどういう病気であるか、一切報道されていなかった。

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コンプレックス 17

コンプレックス 17

■コンプレックス17

披露宴といえば、忘れられない話がある。

年に100組以上も披露宴を担当していれば、色んなことがある。
これは私が担当した披露宴では無いが、最初から新郎側の出席者が異常に少なく
どうしてなのか・・・と、思っていたら、実はそれは「結婚詐欺」で、披露宴当日 なんと新郎は来なかった。

勿論、新郎側の出席者はゼロ。

新郎がいない披露宴をスタートさせるわけにも行かず、「お開き」に

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コンプレックス 16

コンプレックス 16

■コンプレックス16

ボクはこの時代に、エレクトーンプレイヤーの井沢氏と出会った。

この彼との出会いは、その後の人生を大きく変える出会いであった。

当時ボクは結婚式へのこだわりも強く、一緒に仕事をした司会者やエレクトーン奏者、ピアノ奏者からは必ず事務所の名前と本人の名前を聞いて、力量がどの程度か記録していた。

あまりにもひどいレベルの方と組んだ場合には、どこがどのように良くなかったのかを予

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コンプレックス15

コンプレックス15

「親知らず」を抜いたのもこの頃だ。
これを抜いた経験のある方だけが知っているあの恐怖!
ボクの場合は、更にいくつもの不運が重なった。
エドモントのあった飯田橋は東京の「ど真ん中」というと聞こえはいいが、実際は何も無い、全然オモロクない所なのだ。
唯一あるのが小さな出版社や、小さな印刷屋、あとは病院がやたらと多かった。
警察病院やら日本医科大学付属病院やら、
あっちも病院、こっちも病院という感じであ

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コンプレックス 14

コンプレックス 14

■コンプレックス14

そんなことがあってからムッシュは、ボクに対してどういうわけか優しい対応をしてくれるようになった。

真剣に喰らいついてきたボクのことを「面白い奴だ!」って思ったのかもしれない・・・

人との出会い、そして人とのつながりというのは
こちらの出方次第でいかようにでも変化することを知った。

その後ボクは、レストランから宴会サービスに異動になった。

宴会に異動になった当初、ボク

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コンプレックス 13

コンプレックス 13

■コンプレックス13

飯田橋は病院や出版社が多い土地柄だったが、中小企業も多くあった。
そのような企業が、会社の集まりでちょっとした宴会でコンパートメント利用することもあったのだ。

一人5,000円込々で15人くらいの着席スタイルなんていうカジュアルなリクエストだってあるのだ。

ゲストは、料理が卓上にプラッター盛りで並んでいて、それを適当につまみにしながら飲みたい。
そんなリクエストである。

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コンプレックス 12

コンプレックス 12

■第二章 ホテル・エドモント

昭和60年4月、ホテル・エドモントに入社した。

イタリア軒でスタートしたボクもそれなりに成長していた。

フェヤーモントには3年強お世話になったが、新潟に東急がオープンすることを知り、応募したところ東京で面接をしてくれた。給与も待遇も良さそうだった。

里心が出たのか、、、、
不摂生な一人暮らしにも少々飽き飽きしていたのも事実、

そんなことよりもよりも、恋愛がう

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コンプレックス 9

コンプレックス 9

■コンプレックス9

東京での暮らしは、阿佐ヶ谷のアパート住まいであった。

閑静な住宅街で、安くてうまい定食屋や、毎日のように通った焼き鳥屋もあり気に入っていた。

しかし、わずか一年で中野に引っ越した。簡単に言うと追い出されたのだ。

阿佐ヶ谷のアパートは、それぞれ玄関が独立した立派なものでは無く、共同玄関、共同トイレの下宿スタイルであった。

もともとは、眼科医院を開業していたらしいのである

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コンプレックス 8

コンプレックス 8

■コンプレックス8
 
泊りの勤務もあった。
別に泊る必要性も無く、その日帰って、翌朝来ても大丈夫なのであるが、一応そういうことはしてはならず、仕事が終わったら部屋で休み、翌朝は5時半くらいから朝食のスタンバイである。
 
何があるか分からないので、どんなことがあったとしても、最悪でも泊まりのスタッフでなんとかしてもらおうということだと思う。
 
フロントはナイトが2名と、ベルのおじさんで、合計3

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コンプレックス 7

コンプレックス 7

桜の季節にはこんなこともあった。
 
この時期は、いつもの3倍くらい忙しくなるので、勿論全員出勤!
そして、毎年1週間から10日間くらい家に帰してもらえず、
朝6時から夜11時くらいまで仕事をしていた。
故障部屋(問題があってゲストに売れない部屋)をあてがわれ、
軟禁状態であった!?
 
疲労がピークに達して、思考能力はゼロに近づく。
冷たい水で顔を洗ったところ、なんと鼻血が出たことがあった。

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コンプレックス 6

コンプレックス 6

■コンプレックス6
 
そうだ、あの時代はチップというものが存在していた。
 
今ではホテルは、ほとんでの人にとって何ら珍しくも無く、
披露宴やら宴会やら会議やらで利用したり、宿泊したり、
レストランやバーの利用も何の躊躇もないと思う。
 
お昼に、
「ちょっと高いけど、たまにはホテルのコーヒーショップで食べよっか!」
みたいなノリだと思う。
 
昭和52年~54年くらいが、丁度『過渡期』だったの

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