コンプレックス 12
■第二章 ホテル・エドモント
昭和60年4月、ホテル・エドモントに入社した。
イタリア軒でスタートしたボクもそれなりに成長していた。
フェヤーモントには3年強お世話になったが、新潟に東急がオープンすることを知り、応募したところ東京で面接をしてくれた。給与も待遇も良さそうだった。
里心が出たのか、、、、
不摂生な一人暮らしにも少々飽き飽きしていたのも事実、
そんなことよりもよりも、恋愛がうまくいかず、東京がつまらなく思えてきたのだった。
地元新潟に戻って来たものの、何か物足りなさを感じながら日々を過ごしていたボクにある誘いが掛った。
フェヤーモントで大変お世話になったI泉さんからであった。
笹川くん、もう一度東京にお出でよ!
セゾンとJRの共同出資で飯田橋にホテル・エドモントがオープンするんだけど、私そこに行くことになったんだよ。
笹川くんみたいな優秀な人間を一緒に連れていきたいんだよ!
う~ん、どうんすんべえ・・・少し考える時間をもらった。
なんとフェヤーモントで一緒に仕事をしてきたK田ちゃん、O戸ちゃん、M野ちゃん、N口に、A丸、、、、みんな一緒に行くそうである。
そんなに一度に抜けてフェヤーモントは大丈夫なんかい?
色々考えてみたが、このまま新潟にいても良いことはありそうも無いとも思え、入社試験を受けてみることにした。
面接は人事のN井次長さんという方と、私を紹介してくれたI泉さんの3人だけで行われた。まあ、堅苦しい落とす為の面接ではなく、形式だけの面接だったようである。
N井さんはJR出身の方で、駅長さんだったそうである。マスターと呼ばれていた。
当時エドモントの社長もJRの人だった。名前は全く覚えていない…
冒頭I泉さんが「N井次長、この笹川くんのお父さんもJRの駅長さんなんです!」と言った。
それがなんか意味あるんかい?と思ったが、大いに意味があった。
N井さんの表情が急に柔らかいものに変わった。
「そうですか?今はどちらの駅で?」みたいな話になり、
ボクのことよりも父のことを中心に話が展開された。
面接は30分ほどで終わり、その10分後には入社が決まった。
料飲部料飲課の主任として採用されたのだった。
ちなみに主任からはユニフォームがブラック・タキシードであった。
ほどなくして久しぶりの東京での生活がスタートした。
住まいは練馬区富士見台にアパートを借りた。
中野近辺は何となく避けた。理由は前の東京での生活は忘れ、一からスタートしたいという思いからだった。
富士見台は、池袋から西武池袋線で15分くらい、まあ便利であった。
エドモントは色んな意味で気合が入っていた。
シェフは日本人で初めてミシェランの星を取ったという中村勝弘氏。
客室数は450、数多くの宴会場を備え、レストランも沢山あった。
よく考えてみたら、私はこんなに大きなホテルで仕事をしたことが無かったのだ。
つい最近まで、「これでホテルか?」みたいな新潟のホテルで「のほほん」としてきた私は、その状況が明確に分かってくるにしたがって大いにびびった。
しかしもう腹を決めるしか無かった。
エドモントはJR東日本と、セゾングループの共同出資でオープンしたホテルである。
そのオペレーションはセゾンが担っており、オペレーションの幹部は(株)西洋環境開発に籍を置いていた。
管理部門はJR一色であった。
ボクは、料飲課のコンパートメントルームという個室レストランの担当となった。
コンパートメントルームはエドモントの地下にあり、3名から10名くらいの会食や会議、
25名くらいまでの、ちょっとしたパーティーも出来た。
小宴会場とはまた違った個性のある各種の個室を用意し、
色んなシーンに利用してもらおうと作ったものであった。
伊丹監督の「たんぽぽ」にもこの部屋で撮影したシーンがかなり長いシーンで使われている。
その予約からサービス、最初から全てを担当する業務であった。
料理は中村ムッシュのフレンチか、同じく地下にあった和食“平川”の料理を提供していた。
堤清二代表の利用も日常的であった。
当時はバブル最盛期であり、セゾンもまた非常に好調な時期であった。
あの頃、2時間ドラマで『セゾン・スペシャル』というのがあって、
結構面白いのをやっていた。
堤代表や当時の役員の会議や会食のサービスで何気なく聞こえてくる話は、ついつい耳がダンボになる内容のものが多かった。
「今度のスペシャルの主役ですが、○○で考えているのですが・・・」
「あの子じゃインパクト無いからダメだよ!」
みたいな感じである。
ほ~、スポンサーはそこまで力があるんだ!と、正直驚いた。
会長との会食には、当時一世を風靡していた面々が顔を揃えた。
芸能人や、作家、デザイナーなどなど、、、
当時出していた料理の価格は、今でもありありと覚えている。
いつも「シェフお任せ」で、このお任せというのはいつも¥20,000なのである。
ワインもお任せだったので、シャンパンと白と赤 適当に高いのを用意した。
人数は8名くらいのことが多かったので、ワインも1本では足りなかった。
普通であれば無くなってからもう1本開けるか、
最初に2本開けるかどちらかだと思うが、我々は最初に3本開けるようにしていた。
1本ずつ開けていたのでは1.8本くらいで終わってしまう可能性があるからで、
最初に3本開けておけば、先ず確実に余る。
それを狙っていたのだ。
売上を上げるどうのこうのよりも、終わってから飲みたかったからである。
念の為に申し添えると、味見がしたかった気持ちが無いわけでも無いが、ほんとは純粋にただ飲みたかったのである。
こういったものを飲む場合、堂々とワイングラスに注いで飲むわけにもいかないので、大抵コーヒーカップに入れて飲んだ。
そうすれば例え誰か偉い人が来た場合でも、まさかコーヒーカップでコーヒー以外のものを飲んでいるとは思わないので「セーフ」なわけである。
ほんとはグラスに入れて飲んだ方が数段美味しいのであろうが、
当時の我々はあまり細かいことにはこだわらなかったのだ。
まあ、そんなバカ高いワインを出していたわけでも無い。
シャンパンはヴーヴ・クリコとかボランジェとか、
白ワインはシャサーヌ・モンラッシュとかサンセールとか
赤ワインはアロース・コルトンとかジュブレイ・シャンベルタンとか、、、
シャンパンと白が12,000円くらい、
赤ワインは20,000~25,000円くらい、
一応、少し遠慮がちに選択はしていた。
それでもワインだけで確実に10万円以上の売上になった(していた)。
料理8名で16万円なんで、合計でいつも30万円以上になった。
これをバブルと言わずして何という!?
その頃からお金の感覚がおかしくなった。
代表が帰る時がまたカッコ良かった。
エントランスまでご案内すると、今まで影も形も無かったのに会長専用車のサーブ(ただのサーブでは無い限定車)が、物凄いスピードで
車寄せに入ってくるのだ。
タクシーがこんな真似したら出入り禁止だが、会長の専用車なので何をやってもOK!誰も文句なんて言うはず無い。
そして会長が乗り、バタンとドアが閉まった瞬間にロケットが発射されたかのようにブウォン!というエンジン音と共に数秒でまた影も形も見えなくなるのであった。
多分、これは会長から そうしろ!と指示が出ていたんだと思う。それにしてもドライバーのテクニックも素晴らしいものがあった。
下手なアクション映画よりも説得力があった。
中村ムッシュの料理は、それはもう手抜きが無く、本物のフランス料理だった。
ボクは今まで贋物のフランス料理しか見たことが無かったので、もう何が何だかさっぱり分かりましぇ~ん!の世界であった。
例えばキャビアというのは、メルバトーストと一緒に食べるものかと思っていた。
ムッシュのキャビアにはそんな薄っぺらいイカサマなものは付かず、ブリニ・ド・サラザンという舌をかみそうな名前のものが付いた。
これはそば粉で焼いたクレープである。
レモンをかけるのは邪道だそうで、ゆで卵をアッシェしたのを一緒に食べるなんて「愚の骨頂」だそうである。
しかし、こちとら「愚の骨頂」でずっと勝負してきたので、もう付いていくだけで精一杯であった。
クロク・ムッシュやクロク・マドマゼルなんていうサンドウィッチがあるのも初めて知った。
中でも圧巻は、モワルである。
牛の骨の髄をモワルという。
これをステーキの上にのせて食べる料理は最高と言われている。
フォアグラをのせたロシーニという料理があるが、それよりもはるかにレベルが高い。
私はその料理を知っていたが、中村ムッシュの作る料理は微妙に、、、いや全然違っていた。
私が知っていた(つまり普通は)料理は、焼いたステーキの上にポシェ(湯がいた)したモワルをのせたものであった。
しからば中村ムッシュの料理は、焼いたステーキの上に生のモワルがのっていた。
初めて見たとき、かなりびびった!そして引いた!
毛細血管がリアルに見えた。
分かりやすく説明したいところだが、これ以上分かりやすくしても気分が良くなることは多分無いと思われるので、色々といい比喩が浮かんだが書かないことにする。
お客さんはその料理を喜んだかといえば、一部のフランス料理に「超詳しい」方を除いては、皆食べるまえにその「モワル」をよけて、なるべく皿の遠くへ移動し食べていた。
あのモワルがつくことで、その料理の単価は3,000円くらいアップしていたものと思われ、その3,000円は結局ガベッジへの道を進んだ。
それでも牛のステーキが出た場合は、まだ馴染みがあるほうで、
値段が高くなればなるほど牛が出る割合は減った。
しからば何が出たのか・・・・
仔羊、鳩、キジ、鹿、猪、鶉 などなど
高いお金を出して、ぎえ~!!みたいなものが連続して出てきた。
私がお客だったら
「なんだこれは、どういうことなんだ?もっと普通の料理を何故出さない!?」と、言ったかも知れない。
でも、そういうことを真面目に言うお客さんは極まれにしかいなかった。
多分、皆さん言ってはいけなと思って我慢していたんだと推察する。
そんなムッシュに極普通の料理をお願いするのは、反対に至難の技であった。