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「ここには何もない」という「しるし」

space・空間・空白、sense・方向・意味、order・順序・序列


*「空白・区切り・余白」の捏造


 蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収の「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を読んでいて頭に浮ぶのは、英語の「space」と、その語義である「空間」と「空白」です。

 簡単に言うと、

「空間」とは現実の立体に「ある」もの、または「感じられる」もの
で、
「空白」とは平面上(たとえば紙面上や液晶の画面上)に「ある」と人が決めたもの、つまり捏造したもの

です。

 やや詳しく図式化するとこうなります。

 立体:空間・宇宙空間
 ↓(捏造)
 平面:空白・区切り・余白

「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」において、『言葉と物』で「空白」が捏造されるさいの言葉の身振りをどのように指摘しているかを具体的に見ていきます。

 ややこしい話のようですが、単純に考えましょう。いまみなさんがご覧になっている液晶画面上には、「空白・区切り・余白」があるはずです。それは、立体としてある現実界の「空間」(宇宙空間の一部とも言えます)とは異なります。人が作ったものだからです。

 たとえば、絵や写真の「空白」は、文書の「区切り」や「余白」や「空白」に似て、「ここには何もない」という「しるし」なのです。「しるし」は目に見えます。「空白」と呼ばれているし、「空白」というものとして目に見えているのです。

「しるし」ですから、辞書にもその語義が載っています。「区切り」も「余白」も「空白」も辞書に載っているはずです。

 これは「無意味」が辞書に載っているのと同じです。

「無意味」というのは、「意味がない」という「しるし」の言葉であって、「無意味」という言葉・文字が指し示している「何か」ではないと言えば分かりやすいかもしれません。

 無意味は無意味ではないのに無意味としてまかり通っている。
 空白は空白ではないのに空白としてまかり通っている。

 猫は猫とぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。
「猫という言葉・文字」は「猫というもの」とぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。

 ということです。いま私たちが対象としているのが「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」であることを思いだしましょう。

 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

     *

 話を戻します。

「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」で用いられている「空白」は辞書に載っている「空白」と少しずれている使い方をしてあるようです。

 その「空白」について考えてみるために、まず「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」がどう始まっているのかを見てみましょう。

 なお、引用にさいしては、蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。


*辞書に載っていない「空白」


「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」は、「Ⅰ――絵画・図表・絵」という見出しの文章にある、「顔と視線の離脱」という小見出しの付いた次の文で始まります。

 顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔の位置を標定すること、そしてその機能について語りうる基盤を顔と視線との離脱現象のうちに捉えようとすること。ミシェル・フーコーの『言葉と物』と呼ばれる書物が読むものに要請しているのは、そうしたきわめて具体的な体験にほかならない。
(蓮實重彥「顔と視線の離脱」「1――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.21・太文字は引用者による)

 引用文にある「顔と視線との離脱現象」が、さきほど「辞書に載っている「空白」と少しずれている使い方をしてある」と書いた意味での「空白」を説明している言葉ではないかという気がします。

 顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔

 ところで、このフレーズが顔とその鏡像のように見えるのは私だけでしょうか? 印象的な書き出しです。捏造された鏡とか空白とは言いませんが、偶然だとは思えません。

顔を奪われた視線 をたどりつつ 視線を奪われた顔

 文字擬態する意味 意味擬態する文字

     *

「顔と視線との離脱現象」については以下の段落を「ベラスケスの『侍女たち』」(ラス・メニーナス)(スペイン語では Las meninas、フランス語では Les Ménines)の複製を観ながら読むと体感できると思います。

 いつまでもなく、ベラスケスの『侍女たち』と呼ばれる作品は、一人の画家が、製作中の作品の前に絵筆をとめて、その正面にたたずむだろう鑑賞者に向かって視線をなげ、つまりは鑑賞者との立場を交換しうるモデルを凝視しながら、多かれ少なかれモデルと深い因縁を持っているに違いない人びとにかこまれている情景を描き出している。全景は、室内の立体的空間が示す遠近法に従って配列され、奥の壁の中央にかかった鏡の中には、モデルとなった人物の像が反映している。そして、鏡にその人物いがいの誰ひとり、またなにひとつ反映していないが故に、しかも、画面に表象されている人物たちの視線が凝視しているものこそがほかならぬ鏡に反映している像の本体だという理由で、可視と不可視の劇を操作するものが、「最高度に表象されているあの極点」としての鏡であることは明瞭であろう。事実、フーコー自身もこんなふうに口にしている。「鏡こそ、絵のなかに表象された空間とその表象としての本性を同時にゆさぶる、可視性の換位を保証するものにほかならぬ。それは、絵の一部でありながら、二重の意味でとうぜん不可視であるものを、画面の中央にみせてくれるのだ」。
(蓮實重彥「二つの言説」「3――言説とその分身」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.56・太文字は引用者による)

 上で述べた辞書に載っていない「空白」とは、常に人に見えていない部分という意味での「空白」なのです。その「空白」について私なりに書いてみます。

 文体を変えます。

     *

 自分の顔も目も自分には「見えない」し「見ていない」。それにもかかわらず、自分は「見ている」し「見ている」。

 もっとも見たいものが自分の顔であるとするなら、その顔は絶対に見えないものとして「ある」。「ある」のが「見えないもの」として「ある」。

「ある」のが「見えないもの」が「ある」のを否定することは、自分が「見えていること」を否定することにほかならない。

 顔は永遠に隔たれた空白として「ある」。「ある」のを信じるしかないものとして「ある」。

 その顔を見る手立てとして鏡を見ることがあるが、そこに映っているのは像(影)でしかない。自分の顔ではではない。

 自分の顔の絵を描いてもらう、写真として写してもらう、写真の自撮りをする、動画として撮ってもらう、動画の自撮りをする、という方法があるが、映り、写し、撮った像は自分ではない。

 それなのに、映った写った撮った自分の像を否定するわけにはいかない。

 自分はいわば「空白」であり、透明「人間」であり、「世界」という空間の中の「余白」なのだ。もっとも身近にいながら見たことのない人であり、これからも見ることのない人、それが自分である。

 たとえ、自分の手足や腹部や胸部は見ることができるとしても、顔は見えない。それは目があるのが顔だからにほかならない。

 顔はおもて、顔はおもて、顔は表=面に「ある」。
 顔は借りた面。顔は仮面。顔は仮裏の表=面に「ある」らしい。

     *

 自分の目には自分の目が見えない。
 自分の顔は自分の顔に向けることができない。
 自分には自分が見えない。
 自分は自分には会えない。
 人間には人間が見えない。

 おそらく見ているものには見えないものがある。
 おそらく見ているからこそ見えないものがある。
 おそらく知ろうとするものには知りえないものがある。
 おそらく知っているからこそ知りえないものがある。

 辞書によると、「知る」とは「領る」でもあるらしい。

 おそらく辞書には載っていない「空白」や「無意味」がある。
 おそらく辞書には載せられない「言葉」や「文字」がある。

 おそらく言葉や文字にはできない「しるし」がある。
 おそらくしるせない「しるし」がある。

「知る」は「領る」であり、「痴る」なのかもしれない。

     *

 文体を戻します。

「空白」とは、たとえば、見える世界で唯一見えないものとしてある自分であり、正確には、「見ている」目のある、自分の「顔」のことなのではないでしょうか。

 顔と視線との離脱現象は、顔が自分(のもの)であり、視線が自分(のもの)でありながら外に放たれた外でもあるという意味での離脱なのですが、次のように図示化することもできるかもしれません。

 顔と視線との離脱現象
 自分の目が「見えない」 ⇒ 自分の目は見えない空白に「ある」
 自分の顔が「見えない」 ⇒ 自分の顔は見えない空白として「ある」

 自分の顔は誰にとっても常に空白、余白、真っ白な「表=面」
 見えない自分の目と顔は捏造するしかない
 世界は捏造して見るしかない

 こんなふうに私はイメージしながら「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を読んでいます。

 とはいうものの、私は誤解が得意です。誤解による誤読をしている自信があります。その意味で、この記事が、辞書に載っていない「空白」について、みなさんが考えるきっかけになれば嬉しいです。

     *

 では、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」において、『言葉と物』で「空白」が捏造されるさいの言葉の身振りをどのように指摘しているかを具体的に見ていきます。

*「空白」を捏造する


「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」において出てくる「空白」については、「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」で書きましたので、以下に引用します。

     *

 蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』のうち、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を読んでいていちばん気になることを、余白に書く形で以下に述べます。

 気になるのは「空白」という言葉なのです。立体の平面化について、文字どおり文字にする、つまり平面化するという作業がこのフーコー論でおこなわれれていると考えてみましょう。

 その場合に「空白」はどのような役割を演じているのでしょう。言葉としてどのような身振りを装い演じているのでしょう。

「空白」という言葉が出てくる箇所を引用して、空白を埋めるしか、私には方法がありません。

 たとえば、「空間の偽りの深さの奥まった一点」(p.21)、「構図成立の決定的な要因となりながらも鮮やかな欠落としてある外部の顔」(p.22)、「顔というより顔の不在、顔の欠落」(p.23)、「あらゆる顔と視線は宙吊りにされてしまう」(p.25)、「この予告された過ぎない不在の定義」(p.26)、「冒頭で宙吊りにされた定義」(p.26)、「「考古学」は、『言葉と物』にあっては人目に触れてはならぬ唯一の特権的な点、王者の位置とでもいうべきもの」(p.26)、

 このように、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」における「空白」はさまざま形で変奏されてもいますが、「空白」という文字とその周辺の文字列だけを書きうつしてみます。

・「その不可視の中心に反映するのが、「考古学」と呼ばれる空白なのである。この輝ける空白。」(p.25)
・「空白の中心におぼろげに反映する不在の影としての「考古学」」(p.26)
・「その二重の消滅は、というより空白として設定された二つの中心は」(p.27)
・「消滅する二つの中心、そしてたがいに折り重なって接しあう二つの欠落、つまりは空白の特権的な二重化。『言葉と物』がみずから位置づけんと試みる空間は、その二つの中心的な空白の折れ目というか、ほとんど一つに接しあった二つの不在のわずかな間隙にほかならない。」(p.27)
・「「考古学」は、(……)いわば空白のままの姿で「歴史学」が充分には読みえないでいる歴史一般の不連続性を」(p.29)
・「誰ひとりその実態を目にしたことがなく、フーコー自身もその定義を延期している「考古学」は、その空白によって空間を開き、かつまた空間を閉ざしもする事件の標定に貢献しているのである。」(p.29)
・「その「言説」は、いうまでもなく「言語」それ自身ではなく、機能しつつも人目には触れない言語のにすぎないが、この「顔」のまというるさまざまな表情が「比喩形象」と呼ばれる修辞学的な「あや」であることは言を俟たないだろう。」(p.31)

 以上「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」に出てくる「空白」という文字およびその変奏された文字とその周辺の文字列の一部を引用しながら感じたことは、「空白」が立体、ひいては現実の立体的な空間には存在せず、絵画であれ写真であれ映画や動画であれ、人の作った平面上に捏造されたもの――「ここには何もない」という「しるし」だから「そこに見える」のです――ではないかという疑問なのです。

 というか、むしろ、人の作る平面は、空白や余白や枠や周縁や中心や彼方や奥行きや深さや折れ目や襞やあやだけにとどまらず、平面そのものという形で変奏され、変容しながら、その捏造ぶりを顕著にあっけらかんと顕在化しているのではないでしょうか?  

     *

 引用はここまですが、最後の「?」を受ける形で書いているのが、本記事と、これから書くつもりの続編、つまり全体が「space・空間・空白、sense・方向・意味、order・順序・序列」というタイトルになる予定の記事集なのです。体調が良くないので、身体と相談しながら書いていきます。

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*顔、鏡、空白について書いた記事です。

 鏡に映っているのは姿や形というよりも時間だという気がします。正確にいえば、時間ではなく、ずれなのかもしれません。抽象である時間を、人は「見る」ことができません。「まえ」と「いま」とのずれとして感知するしかないのです。
(拙文「顔」より)

 もっと簡単に言うと、自分とは刻々と更新されつつある「ずれ」なのです。
 
わたくし流に言うと、この「ずれ」とは顔にほかなりません。人は何にもまして顔を見るために鏡を見るのであり、鏡に何が映っていようと、人はそこに顔を見るのです。
(拙文「鏡、時計、文字」より)

 人が満足する形での究極の「自分を見る」とは、「別人として自分を見る」ではないでしょうか。自分が別人にならないかぎり、それが不可能だと分かっているので、失望感と不満は永遠に続くと思われます。「もっともっと」「もっと見たい」が延々と続くという意味です。
(拙文「VRで自分に会いにいったその帰りに」より)


(つづく)

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